第6話 負けたくないのは
「久賀岡くん、やめておいたほうがいいと思うが」
目の前には、道着に身を包んだ久賀岡くんがいて、震える身体をなんとか前に出そうとしている。
「おれだって、あれからいっぱい練習したんです。お願いします、香椎さん、手合わせしてください!」
かくいう私も道着を着ている。場所は道場。校内で空手部の活動が行われている場所だ。今は朝練中で、突然、久賀岡くんが手合わせを申し込んできた。
「お願いします! 押忍!」
そう言って、久賀岡くんは私のほうへ向かってくる。穴だらけだ。守りも攻めも不十分。
「あ」
気づいた時には遅かった。私の蹴りは久賀岡くんに命中し、彼は勢いよく地面に倒れこんだ。
「ご、ごめんな。大丈夫か?」
「だ、だいじょうぶですぅ」
今にも死にそうな顔で言う。とりあえず、腕をつかんで彼を抱き起こし、道場のすみまで移動した。
「……やっぱり、まだ頑張りが足りないんだ」
「そんなことはない。久賀岡くんは毎日きちんと練習してるだろ」
久賀岡くんの存在を認識することによって、部活動でも楽しいことが増えた。彼は私を見つけると声をかけてくれて、トレーニングの手助けをしてくれる。だが、自分の訓練も決しておろそかにはしない。
彼の真面目な態度に、私は空手をすること自体が楽しみになってきている。練習も以前より充実したものになっていると、確信している。
ともに訓練にいそしむ仲間がこんなに心強い存在だったなんて、私は知らなかった。
「今日の昼休み、裏庭に来るか?」
彼はにこっと嬉しそうな顔をして、「行きますっ」と答えた。私も笑顔で答えて、再び練習に励む。
こんなに頑張っている彼を見ていると、ああ、私って本当に何も知らなかったんだなあ、なんて思う。
努力してきた空手でさえ、本当の楽しさを見出してはいなかったのだ。
つまらない人間だった。そんな自覚さえわいてくる。
だからこそ、変われたのだ。今の自分が、今までで一番いいように思えた。
***
志緒とともに裏庭へ行くと、久賀岡くんがクロを抱いていた。私たちが声をかけても、身体だけは動かそうとしない彼に、「どうした?」と聞いてみる。
「このまま、寝ちゃったみたいなんです」
クロは彼に抱きしめられたまま、眠りの世界へ旅立っていた。
私と志緒は、彼の腕の中をまじまじと見つめる。
「か、かわいいねぇ、クロちゃん」
「かわいいなあ、クロよ、かわい、かわいい……」
あまりのかわいさに鼻息が荒くなってきた私と志緒に、久賀岡くんが苦笑する。
「おれ、こんなの初めてです。猫ってこんなところで寝ちゃうんですね」
「それじゃあ、しばらく身体動かせないな」
クロを眺めつつ、その場に腰を下ろす。久賀岡くんが、「そうそう」と思い出したように話しかけてきた。
「香椎さんって、いつから空手やってるんですか?」
「五歳くらいからだな」
はあ、と感心するように呟くと、
「やっぱり、相当前から続けてるんだ。おれは、中学に入ってすぐくらいに始めたんです。卒業するまでに選手として伸びなくて、コーチからもやめちまえって言われてて、高校では空手部に入るかどうか、迷ったんですけど」
今度は力強い声で、「でも、決めたんです」
「空手部に入って、弱い自分を変えたいって。まだ、そういう自分には全然なれてないけど」
私は無意識のうちに、そんなことはない、と口をはさんでいた。
「久賀岡くんは弱くなんてない」
「弱いです、だって」
久賀岡くんは、クロを抱いている腕は動かさない。でも、表情は一変している。
「おれ、試合で勝てたことないんです」
彼は真剣そのものだ。見ているだけでも、意を決して言ったのだと分かる。
「昔から、争いごととか好きじゃなくて。試合になると、相手を傷つけるのが怖くて、手を出せなくて。空手を始めた時は、先生にお前でかいから空手やれよ、強くなれるぞ、とか言われてやってみただけで。でも、強くなりたいのはほんとなんです」
久賀岡くんは、ゆっくりと私を見た。
「自分なりに頑張ってきたつもりでした。でも、高校入って一日目の部活で、すごい選手と下っ端の選手が手合わせをするっていう内容の練習があったんです。それでおれ、香椎さんと当たりました。一発で負けた」
「奈津美のこと、怖がってたもんね」
気遣うように、志緒が話しかける。しかし、久賀岡くんは首を横に振った。
「違うんです。きっと、おれが怖がってるのは、香椎さんじゃない。自分の中に住んでいる、もう一人の自分なんです」
噛みしめるように言って、久賀岡くんは「おれは」と自分の腕の中で寝ているクロを見る。
「おれは、そんな自分に勝ちたい」
私は立ち上がり、彼を見下ろして二度うなづいてみせる。
「勝てるよ、絶対。私だって、自分に勝ちたくてやってるんだぞ。久賀岡くんと同じだ」
私にも、自分に負けてしまいそうな時がある。全国大会の決勝戦で負け、二位になった時もそうだった。両親は私を激しく責めた。空手を続けてきたことさえ、後悔してしまうほどに。
志緒に話したら、とても驚かれたが。格闘技をやっている人からしたら、よくあることだろう。
久賀岡くんは、いつもみたいに人のいい笑みを浮かべて、「ありがとうございます」と律儀に頭を下げた。
その久賀岡くんの様子に、志緒が首を傾ける。
「久賀岡くん、それ、どうにかならない?」
「それ? ってどれですか?」
「それだよ、敬語」
志緒はため息をついてから、「友達なんだから、普通に喋ってよ。なんか気になってたんだよね」とはっきり言った。
申し訳なさそうに、久賀岡くんが再び頭を下げる。
「でも、これ癖なんです」
「嘘だよ、だって辻くんと話す時は敬語じゃないもん」
「ちーちゃんは別です!」
「別じゃないよ、私たちだって友達でしょ!」
何やら言い合いになっているが。でも、こんなふうに話せる仲になれたんだなあと、ほっこりしながら私はペットボトルのお茶を一口飲んだ。
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