第20話 放心状態
スマトラの操作でクラッシュベリー号は壁に向かって進み始めた。
ワームルートの論理構造壁は、触れてはいけないものと言い聞かされ続けてきたものである。そこに触れると式に乱れが生じ、制御を失った生の虚数空間にはじき出されると言われてきた。少なくとも僕はそう教えられたし、そのように学んできた。だから、本来これは自殺行為だ。自信満々の海賊たちが横にいなかったら、絶対に試すことすらしなかっただろう。
ユカは冷静な面持ちでサブディスプレイの様子を見ていた。
ハープーンを構えたパトロールのライダーは、ヨナグニの妨害工作でパニックになった別の船の挙動に進行を遮られていた。
メインディスプレイに視線を移すと、物理エディタの先端が形状を変化させていた。細く長く伸び、先端が尖鋭化し、周辺に稲妻のような光が発生していた。その光はどこかで見た事がある気がした。こめかみの辺りに痛みが走る。
フラッシュバック。
誰かの顔。
瞬きの間に消える。
ライダーが体勢を乱しながらハープーンを発射した。
弾頭は外れて他の船に突き刺さった。
クラッシュベリー号の船体を包むロジカルコートの膜がルートの壁に触れ、相互に干渉を始める。その論理の混乱の中心に物理エディタの先端が触れると、一瞬で穴が空いた。ワームルートの壁に突如開けられた穴はトンネルのような空洞になっていた。
「ボサボサするな、前進だ」
スマトラの指示で僕は我に変える。先ほどシミュレートした行程に従い、推進装置を操作する。クラッシュベリー号はゆっくりと移動を始め、穴の先には星空が見えていた。宇宙だ。実存空間の世界がそこにあった。
本当に出てしまった。
空洞は短く、船体はすでにその全てを宇宙空間に晒していた。
サブディスプレイは後方の様子を写している。
視界は仮想イメージから光学映像に切り替わっている。
宇宙空間上に開いた穴が小さくなって閉じていく。
一瞬だけライダーの姿が穴の中心に見えたが、次の瞬間にその穴は消滅してしまった。
僅かながら安堵の空気が部屋の中に流れた。
予定どおりに事は進んでいたのだが、僕は放心気味だった。
本当に出てしまった。出てしまえた。
これまで蓄積してきた知識や常識が音もなく崩れ去った。
事前に聞かされてはいても、実際に自分の目で見たものは衝撃の連続だった。
「あっぶねー」
とヨナグニがサブディスプレイを眺めながら言った。
「ガッついてきてましたねー」
クレタも軽いノリだった。
僕は自分がまるで知らない世界に迷い込んだような気分だった。
「現在座標は」
ユカがスマトラに確認している。
スマトラが示した数値を見たユカは、僕に負けず劣らず放心状態になっている先輩に話しかけた。手には先ほどの荷物を持っている。
「この荷物、私宛だ。確かに受け取ったぞ」
「はい?」
「この宛名は、私のものだ」
「え? いやいや、そんな訳ないでしょ」
「いくつかある偽名の一つだ。それに座標も一致する。届け先に指定されている座標と現在座標が一致する。これは偶然ではないだろう」
「……そんなことある? いやもうなんでもありな感じ凄いけどさ」
「送り主はどんなやつだ」
「じいさんだけど。普通の。名前、なんだっけ」
「宇喜多。そこに書いてあるでしょ。差出人」
と僕は答えた。
「ウキタ、……ウキタか」
ユカは視線を泳がせて考えを巡らせているようだった。
「ウ、キタ、キタ……ふむ。そのあたりか」
「知ってるんですか」
「多分な。会ったことはない」
おそらく僕の眉間には深いシワが生じていたのであろう。
ユカは肩を竦めて弁解するように言った。
「いろんな伝があるんだよ。そういうことにしといてくれ」
「あの爺さんが海賊稼業と関わりがあるんですか」
「その辺のことは君らの立場を考えれば、深入りしない方が身のためだ。知らない方がいいというやつだ」
「ぜひ知りたいですが」
「やめておけ」
短く答えたユカの目には「それ以上聞くな」という意思がありありと見て取れたが、その表情は柔らかく、優しい眼差しで目を細めていた。船を乗っ取られている事実を考えれば不可思議なことだが、僕はどうもこの人から過剰な好意を受けている気がする。そしてぼくはそれを自然に受け止めている。視線を合わせても気まずさを感じずにいる。出会ってからほんの数時間の関係でしかないのに。
僕とユカの間にできた空気を払うかのように、クレタの声が響いた。
「後方空間に異常検知。うわあ、たぶん追ってきましたよ。空間に穴空きそうです」
「さっきのやつかな。無茶するなあ。あのバイクで出てくる気か。問題児だろあれ」
ヨナグニが反応する。
ユカもその事態に集中を切り替えた。
「組織の枠に染まらん奴かもな。ああいうのは手強い。さっさと逃げよう。スマトラ、このままワープするぞ。座標はここだ」
ユカはもうひとつの荷物の送り先に書いてある場所を指し示した。
「船長」
「いろいろ面白かったから迷惑料ついでに送ってやろう」
「やれやれ、随分お気に入りですなあ」
「急げ」
「みんな聞いた通りだ。手順を変えるぞ。このままショートワープだ。その後に同期解除を実行する」
また慌ただしくなった。
僕は突発した展開についていけなかった。準備してきたことならともかく、未経験で想定外の話にはお手上げだ。先輩と同じように手持ち無沙汰の部外者みたいな顔になっていることだろう。
「亜空間突入!」
ユカの指示が飛んだ。
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