第9話 身体検査
かつてワームホールは未知の存在だったという。理論上の産物。空想の賜物。物理学者たちが好奇心の虜となって生み落とした発想。だが現代においてそれは現実のものとなったばかりか制御可能な交通網として人類に利用されている。その道は元の語源を取り入れてワームルートと呼ばれている。
制御可能とは言ったものの、それは百パーセントの安全を意味するものではなく、時には事故や不具合が起きたりする。それが今だ。
光が、細いいくつもの筋となって僕の前方から後方へと矢のように飛んでいく。まるで異世界の入り口に吸い込まれていくような、あるいは奈落へ落ちていくような感覚、錯覚。だけど、時間の壁の向こう側、未だ観測されぬ未知の次元から僕らを眺めている者がいるならば、超高速で一直線に進んでいく僕らの姿が見えるだけなのだろう。同じ現象に対する当事者と観測者の認識の違いには深い谷間のような大きな隔たりがある。
体は激しい揺れを感じているのに頭は妙に冷静で、そんな醒めた思考を巡らせながら、僕はメインディスプレイを目一杯に埋め尽くしたその光景に圧倒されていた。かろうじて首をひねり、すぐ隣のメインシートの方を見る。そこには先輩の代わりにユカマリが座っていて、彼女も同じように首をひねって僕を見ていた。
震えている。
脅えている。
僕も同じような顔をしているのだろうか?
僕は努力して笑顔を作った。
彼女もそれを真似した。
未完成の表情。
不意に分からなくなる。
何故、今がこうなのか。
因果の糸が混線して、過去の記憶を意識の表層に呼び出せなくなって、時間の前後が連続的順列的配列の規則性を失っている。
「私も連れていって」
ユカマリが言う。
連れて行く?
どこへ?
僕と?
船全体が激しく揺れた。
軽い混乱が僕の思考力を奪い、無意識に彼女の方へ手を伸ばした。
ユカマリも反応して同じように動き。
遅れて動く鏡のように。
そして僕らは手を……
互いの手を……
ん?
何かがおかしいと思った次の瞬間、ズゴン、という重い響きが額の上の辺りに発生し、痛いと思った時には僕は自分の頭を抱えていた。
「っ痛ぇー……」
涙目で左右を確認する。
コクピットのメインシートで、ごみ捨て場のカラスを威嚇するような目をした先輩が僕の方に手刀をかざしている。
「な、なんすかぁ? いったいなあーもー」
「なんすかじゃねえんだ気持ち悪いんだお前はぁー。いきなり手ぇ握るんじゃねえっつうのおーおいこら。なんだ? 目覚めたのか? 夢現つに新しい性にでも目覚めたというのか? 俺のリビドーの属性分布図にそのケは百万分の一パーセントもねえぞ」
「ちょっと、何言ってるかわかんないです」
「いいか? ゼロだ。百パーセントゼロだ!」
「いや、訳わかんねーし……つかマジで痛いんスけど。ひでーなぁ」
「酷いのは貴様の方じゃこのボケタコナス。いいか? 二度と俺の手を愛おしそうに握るんじゃねえ。撫でるんじゃねえ。分かったか?」
「なんで俺がそんな事するんですか」
「たった今やっただろうが」
「は? なんで俺が」
「目覚めが足りねえならもう一発お見舞いしてやるぞ」
先輩はそう言って、いつか見たカンフー映画の構えをそのままコピーした動きで手刀をかざす。
「あーもー起きました、起きましたよ」
と言いつつ僕は防御の姿勢を取る。こちらの返答にお構いなく襲いかかってきそうな気配を感じたからだ。どうやら敵の目はマジだ。何だかよくわからないままに僕と先輩の間には臨戦態勢が敷かれていた。
妙な空気で睨み合っていると、シートの後方から押し殺した笑い声が聞こえてきた。
「お二人はいつもそんな感じですよね」
見ると、ユカマリが野に咲く花のようにささやかで鮮やかな笑顔を浮かべて僕らを見ていた。生暖かい目で見守っているようにもみえる。
「お二人?! 我々は断じてそんな関係ではありません!」
先輩が構えを維持したまま断固として言う。
そんなってどんなの想像してんだおい。
「あんまり過剰に反応すると逆に疑われますよ、先輩」
「なにい!? よくも当事者が傍観者のような口ぶりを……」
先輩が今にも手刀を振り降ろそうというところで、ユカマリはツボへの刺激が限界に達したようで、きゃははははは、と声を上げて笑い出した。腹を抱えて全身で笑う彼女は彼女は船内をピンボールのようにあっちへこっちへと飛び跳ねてしまいそうな勢いだったが、幸いにもユカマリの体は前面を覆うシートベストに制動されたままで、でも窮屈そうな様子など感じさせずに身を捩って笑っていた。
ともかくも、僕の仮眠時間は終了した。時刻を確認すると予定より数分早かったが、物理的な頭痛を除けば覚醒状態に問題はなさそうだ。
ユカマリはすっかり馴染んでいた。ここに来て初めのうちは固っくるしいお役人の雰囲気を漂わせてエリートらしくしていたものの、どうやらこっちが素の状態のようで、よく笑い、よく喋る普通の女の子みたいになっていた。
数人の関係者を除いて、ユカマリの素性は一応、隠されている。トーマスルトにはもうバレているし先輩の口の軽さも折り紙付きだが、表向きはインターンの研修生ということになった。トポロ社の人間が頻繁に出入りしているとなると同業者への心象に良くも悪くも余計な影響が出ることを考慮された結果である。また、トポロ社的にも人体実験的なことを実施しているとは大っぴらには言いたく無いため、身分の偽装を有用と考えたわけだ。外部の人間であるトーマスルトには、ユカマリ曰く「裏から色々と手を回して」口封じをしたということだった。細かいことは守秘義務を盾にされて聞き出せなかったが、「裏」と言ったときのユカマリの雰囲気に微妙なものを感じて、僕も先輩もそれ以上聞かなかった。もしかしたらあいつにも後ろ暗い弱点のひとつやふたつあったのかもしれない。
ユカマリが僕の生体データ採集を目的として仕事に同伴するようになってから、僕の主観時間にして約三ヶ月が過ぎた。その間ボスの采配もあってか無難で退屈な仕事をいくつかこなしてきた訳だけど、やはり同じ場所にずっと一緒にいれば会話もするし内面も見えてくる。少しずつ打ち解けてきた感じはあったのだが、この一ヶ月くらいで彼女の中で何かのスイッチが切り替わったかのように雰囲気が変わり、よく笑うようになった。うっかりすると相手がトポロジクス社のエージェントで、僕の監視のためにこの場にいるということを忘れてしまうくらいだ。
(それにしてもやっぱり、笑った顔可愛いなあ)
などと僕が彼女の笑顔を振り返りつつ眺めていると、側頭部にまた、ゴン、と重い響きがのしかかってきた。
痛みの走った方向に目をやると、先輩が鼻息荒く手刀を構えている。思いっきり振り降ろした直後の姿勢と思われる。
「ユカマリちゃんを妙な目で見るんじゃねえ!」
あんたの方がよっぽど妙な目つきしてますけど。
航海は順調で僕らはすでにあらかたの仕事を終えていた。残っているのはウキタ爺さんの荷物だけで、今クラッシュベリー号はワームルートに乗って平行世界の時間軸に向けて移動中の状態だ。異世界側の子孫にタイムカプセルの鍵を送るという行為にはどうにも理解が及ばなかったが、理解はともかく仕事は完遂しなければならない。これが終わればまた休みが取れるのだ。
あまりの平穏さに妙な感慨を覚え、三ヶ月前のことを思い出す。
僕は覚悟していたのだ。いわゆる人体実験のサンプルとして体中に様々な器具を取り付けられたり、身体測定の名目であれこれと恥ずかしい屈辱的な扱いを受けるものだろうということを。しかし実際の僕の日常はあまりにも今まで通りだった。違いといえば定期的にユカマリに身体検査を受けていることぐらいだった。
時空間遷移中の船はロジカルコーティングの処理を受け、論理空間でも物質的実体を維持できるようになる。数式バリアと呼ばれることもあるが、船がこの状態にあるときは必ず身体検査を受けていた。
今回もその準備のためメディカルボックスへ移動しようとすると、ユカマリが僕を呼び止めた。
「実は……今日はギンミさんにお渡ししたい物があるんです」
何だかわからないが勿体ぶった物言いだった。両手を後ろに回して上目遣いで僕の顔色を伺っているようでもある。視界の隅っこで先輩が耳をそば立てている様子が手にとれた。
「なんですか」
「プレゼントです。受け取ってください」
そう言うと、ユカマリは小さな箱を取り出した。
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