第5話 故郷の宇宙(そら)
故郷の空ってのは、いつ帰ってきても良いものだ。例えそれが生命にとって過酷な環境である真空の宇宙空間であったとしても、そこには懐かしい空気が漂っている。
ワームルートの空間を満たす虚数海流を乗り越え、様々な平行世界を移動し、あらゆる時間軸を過去も未来もなく転位しながらいくつかの仕事をまとめて片づけた後で元の世界に戻ってくると、やはりほっとしてしまう。安心感が違う。
もちろんこういう時代だから、旅立つ前と戻った後の世界には、何らかの差違があるのかも知れない。
タイムトラベラーは増加の一途であり、彼等が様々な時空で発生させる歴史干渉行為は、それぞれはちょっとゴミを拾ってみたり、というような些細なものだとしても、次第に蓄積して、タイムパラドクスの元になる。そして【シュレーディンガーの化け猫】に代表されるようなイベントリライト現象を引き起こす。イベントリライトは、微小なタイムパラドクスの蓄積によって拡大した世界の矛盾を是正する為の、いわば世界の自浄機能なのだ、という事が言われているが、誰かが実証した訳ではなく、科学的根拠は得られていない。通説、というレベルの話だ。
一般論はともかくとしても、今回に限っては僕は【化け猫】からの干渉を直接的に受けていて、何らかの事象改稿に巻き込まれているはずなのだが、僕自身にはその自覚がない。改稿の影響を強く受けた人間ほど、改稿された自覚がないという話を聞いた事があるので、よほど深くリライトの渦に飲み込まれたか、あるいは単に放電現象に当たられただけで以前も以降も何も変わっていないか、のどちらかという事になるのだろう。
今の自分は、少し前の自分とは、違っているのかも知れない。
そして、もしかしたらこの世界も同様に……
確かにそんな事は起こり得る可能性ではあるけれども、しかしながら、男子三日会わざれば刮目して見よ、という言葉もある。三日も経てば別人のように変わる事が出来るのが人間だ。
べつに男でも女でも構いやしないが、時空を飛び越えようが地べたを這おうが、人は事象の推移とともに変化、成長するものだ。価値観が変われば物の見え方も変わるし、そこから受け取るメッセージも違ってきたりする。
僕の人生がリライトされていてもいなくても少しばかり故郷の時間軸を離れている間に、僕は何かしらの成長を遂げているだろうし、この世界もいくばくかの変化をもって僕を受け入れた事だろう。どっちだって大して変わりはないのだ。
何が言いたいのかって言うと、始めに戻る訳なのだが、例え世界が変わろうとも、僕がリライトされていたとしても、故郷の空気が特別である事には変わりなく、いつでも僕を暖かく迎えてくれる。無条件に、受け入れられた気分になる。それを改めて実感した。
油断すると気が緩みそうになるところだが、まだ仕事が完全に終わった訳ではない。納品書をボスのところに届けて、報酬を手にしない内は安心してはいけないのだ。
特に今回は数ヶ所の時空点を未来に過去にと飛び回ったから、手当ても含めてでかい報酬になるはずだった。【化け猫】のイタズラで伝票がリライトされていない事を祈るばかりだ。
月の裏側のワームポートを後にして、地球方面へ向かう。
バックビューディスプレイに映る月の姿が、どんどん小さくなる。
僕は所在なげに空を掴み掴みしようとする自分の右手を眺めていた。何の意志も働かせていないのに、勝手に動いてしまっている。こうして他人事のような気持ちで見ていると、何だか別の生き物みたいだ。
「あーもう着いたも同然だな。お疲れさん」
と、先輩が気の緩み切った声で言った。
「えー、その空気、ちょっと早くないすか」
「カタイこというな。ギンミちゃんがいるから大丈夫でしょー。後は任せた」
そう言ってズルズルとだらしなくメインシートに沈没した。
ちょっと前まで見られた、僕を気遣うようなそぶりは、もう跡形もなく消え去っていた。ワームルートを無事抜けてこられたところで、問題ないと判断したのだろう。もうすっかり元の先輩だ。
「しょーがないなー」
僕はぶつくさ言いつつも、航路設定メニューを呼び出し、アマノミハシラへのプロファイルを選択する。
地球と月の周辺空間のあらゆる物資運搬の中継基地であり、近接するいくつかのラグランジュポイントへの中間点となる事から、交通の要衝として様々な人間が集まってくる都市的な役割も果たすようになった、巨大宇宙ステーション、アマノミハシラ。
そこに我らが運送会社、ウツツトライカが間借りしている貨物船ドックと営業所があるのだ。
「航路設定、確認いいですか?」
「承認ー。そういや、出がけにボスが何とか言ってたっけな」
「あー……何でしたっけ」
「分からんから聞いとるんだ」
「俺イベントリライトされちゃったからなぁー。記憶に自信がないっす」
「なんだよ、ずいぶん余裕出てきたじゃねえの」
「悩んだところで考えたところで、大自然の驚異の前には俺の力なんてないも同然っスから。そんな訳で昔の自分は忘れる事にしようかと。そしてオートドライブへの切り替え申請」
「承認。あっさりしてるねえ、お前。駄目だよそんなこっちゃ。人間、過去を反省して、成長するんだよ」
「先輩にまともな事言われても、あんまり説得力ないんですけど」
「そこはお前の納得力でカバーしてくれ」
「そんな力は持ってません」
言うと同時にオートドライブシステム起動。
これでようやく一息つける。
アマノミハシラへの航路プロファイルにはステーションの交宙管制情報と連動する通信機能がついているから、他船との衝突は自動的に回避されるし、障害物があれば事前に警告が走る。一眠りとは行かないまでも、肩の荷を一つ降ろせた感じにはなる。
「んー、思い出せない」
「あ、まだ考えてたんですか」
「なんか引っかかってるんだがなー」
「うんうん唸ってるぐらいなら、寝てていいですよ。俺、勉強してるから」
「あ、そう? じゃ、寝るわ」
先輩はころっと気持ちを切り替えた。そして数秒後にはすぅすぅと小気味よい寝息を立て始めた。
僕はコックピットの照明輝度をミニマムまで落とし、持参のコンパクトキューブをフレックスデータドライブにセットして学習プログラムにアクセスする。トポロジーエンジニアになる為には欠かせない知識データベースを少しずつシナプス連動させながら、時を潰した。
エアロック正常。
気密確認。
船体固定完了。
先輩は神業の手さばきで着艦工程の操作を一瞬で片づけると、
「はい、OKでーす」
と言って、もう立ち上がってメインシートから離れていた。僕はまだシートベルトも外せていない。この瞬間だけはいつも悔しい思いをさせられる。
この人、腕はいいのだ。発揮する気がないだけで。
「もたもたすんな、ギンミ。早いとこお駄賃もらいに行こうぜ」
先輩は床と天井の間を手と足でぴょんぴょん跳ね回り、今にも駆け出さんばかりだ。無重力のせいか、いつもよりさらに軽い人に見える。
僕があたふたとベルトを外していると、営業所からの通信が入った。
「戻ったのか?」
メインディスプレイにボスの顔が映る。白髪交じりの短髪に、たわわに膨らんだ頬の肉、こだわりのちょびヒゲ、と愛嬌のある要素を揃えていながら、くりくりした瞳に宿る光は鋭くスキがない。
「やっほー、ボス。大画面で久しぶり」
先輩が飛び跳ねながら応える。
「相変わらず口が減らんな。軽口叩いてっとこっちの十三インチと付け替えちまうぞ」
「それじゃあ窓より小せえよ」
「運転するのは俺じゃない。ああ……またくだらねえノリになっちまう。二人とも早く上がってこい。寄り道するなよ。客が来てる」
「客? どっちに?」
「両方、かな」
「かな?」
「んんんん。あー、いいからさっさと上がってこい! ASAPだ! このボケ!」
そう叫んで、ボスは一方的に通信を切った。
僕はようやくシートベルトを外せたところだった。
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