第4話 何かの名残が手の中に残っている
休暇を終えた僕らは月面都市ハッシュ・ガッシュのムーンポートから離陸して、月の裏側のラグランジュポイントへと向かった。
一番近いワームポートが次の目的地だ。
ワームポートはワームルートへの出入口であり、時空間ドライバーたちの集まる港町でもある。
これから時空の旅へ旅立つ者、帰路へと向かう者、あるいは旅の途中でちょっと立ち寄ってみただけの者たちが集まって、しばしの休息を楽しんだり浮かれて騒いだりしてにぎわうこの街も、ほんの少し前まではその存在すらなく、代わりに旧式の寂れた宇宙ステーションが浮かんでいた。
建設時には月の裏側の開拓基地として、月面都市誕生後はさらなる外宇宙への前線基地として機能していた初期型宇宙ステーションは、『新たに歴史的価値を有した人類の遺産』という立場を得て、数年前まで月面自治区の観光収入の一端を担う役割を果たしていた。
しかしタイムワープ航行路の拡大普及を目指すトポロジクス社が、圧倒的資金力を槍に盾にしながらその売却を迫ると、自治政府はあっけなく周辺空間ごとステーションを売り払った。この一連の売却劇が語られる時、トポロジクス社から多額の献金が自治政府関係者にばらまかれたという噂がおまけに添えられる事が多いのだが、真偽の程はともかくとして、当時、それほどきな臭い空気が月の近辺に充満していたというのは間違いないのだろう。
とまあ、ここまでの話は僕が生まれ育った「基準軸」とされる時間軸での歴史話なのだが、同じ軸系のパラレルワールドなら、どこへ行っても大体似たような歴史になっていて、誤差は小さい。とりわけタイムワープ自由化元年が、どの時間軸においても共通であると言うのは最大の謎とされている。その共通性の不可思議さについては未だ議論が続いていて、明確な説明は得られていない。
なんにせよ、僕らの仕事はそんな過程を経て築き上げられたインフラがなければ成立せず、この仕事で飯を食ってる僕らとしては、ワームルートの成立過程は問題にするべきところじゃない。
安定した保守管理が運営されていれば、それで十分。
〈着港申請が受理されました〉
コントロールセンターからの通信が届き、ようやく入港が可能になる。
「今日はいい流れだな」
「珍しく空いてますね」
言いながら、入港プロセスに備え、サブシートにメルトインされたシステムエイリアスにアクセスして、各種パラメータを調整する。
鼻歌交じりに作業を進めていると、
「手、どうしたの?」
と先輩が聞いてきた。
「なんすか?」
「なんかさっきから」
と言って、作業していない空いた方の僕の手を指さしている。
僕は自分の手を見てみるが、特に異常はない。
「手がどうかしました?」
「いや、こう、ずっとニギニギしてるから」
と言って月ウサギまんじゅうを握りつぶすような仕草を繰り返しつつ、僕に見せる。
「そうですか?」
「うん。てゆうか、【化け猫】の一撃にやられてから、ずっとなんだよ。気になってたんだよ。なんか、お前、後遺症でも出てんじゃないか?」
まるで気付かなかった。
「マジすか」
「マジす」
どうも先輩の歯切れが悪い。ここに来て、ちょっとした後悔の念でも感じ始めたのかも知れない。
〈非正規積載項目検出スキャン、開始します〉
再度のコントロールの通信を受け、僕は作業を中断してサブシートに体を埋める。先輩もメインシートで一旦、シンクする。
【シュレーディンガーの化け猫】から発生した雷に撃たれた後、僕は体に何の異常も感じなかった事から、安静にするでもなく、病院にすら行かなかった。それは僕自身、体調に問題を感じなかったからでもあるが、何より先輩が掲げていた「絶世の月面美女をナンパする」という当初の目標の達成に水を差したくないと言うのもあったのだ。
珍しく僕を気遣うような態度を取る先輩を見ていると、受雷後はむしろ生まれ変わったかのような新鮮な気分に満たされていた僕としては、かえって申し訳ない気持ちになっていた。
「ナンパ行ける?」
とおずおずと聞いてきた先輩に向かって
「当たり前じゃないすか。何遠慮してんすか」
と、逆に自分から立ち上がって見せた。
結果としては先輩がなかなかの手腕を見せ、絶世とは行かないまでも、文句なしの女の子二人連れを巧みに言いくるめて口説き落とし、僕もそのおこぼれに預かる形となった。実りあるバカンスは果たされたのである。
しかしながら、女の子二人に別れを告げてムーンポートに向かうあたりから、先輩の口数は極端に減っていった。兵どもが夢の跡という所かと思っていたが、そんな情緒的な話ではなく、単に冷静になり始めたと言う事なのだろう。なにせ、乗船パートナーが未だ謎の多い確率振動現象の影響を受けているのだ。時空間ドライブに何らかの影響を及ぼさないとも限らないし、もし僕に何らかの異常が見られるならば、最悪ルートライセンス取り消しやワームポート入港規制措置を受ける事も無いとは言えないのだ。
誰だって不安になる。
先輩が僕の安否を気遣ってくれているのは十分感じているが、悩みどころはそれだけじゃないと言う事だ。
コントロールのプレッシングコールが入ってくる。
〈時空遷移規制項目リストのマッチングシーケンス・クリアーです。ロジックコーティングポイントへ移動して下さい〉
やはり今日は処理が速い。いつもの半分も時間がかからない。
「順調、順調」
僕はパラメータのアジャストを終え、一時的にシステムエイリアスへの干渉を閉じる。
ああ、これか。
何とはなしに自分の右手を見て、先輩の言っていた事が分かった。
確かにやっている。ニギニギと。
なんかはっきりとしない微妙な動きだ。しかも無意識にやっているから、怪しげに見られてもおかしくない。
まだまだ決して安全とは言いきれない時空間ドライブのパートナーがこの状態なら、先輩の不安もわかる。落雷の影響で手が無意識に妙な動きをして運転操作を間違えでもしたら、事故に繋がる可能性だってあるのだ。機体を包むロジックフレームが破壊されたら、僕らの体はあっという間に虚数空間に投げ出され、肉体を構成する物質の位相が反転して実体を失ってしまう。ディラックの海に沈んでふたたび浮かび上がって来た人間の話は、これまでまだ聞いた事がない。前例がない。
しかしなんでまたこんなクセがついてしまったものか。
思い当たる節が、あるにはある。
受雷直後から、手の中で何かが足りない感じがある。
僕はさっきまでニギニギしていた手をギュッギュッと強く握りしめたり緩めたりしてみた。先輩はメインシートにシンクしたままこっそりこちらの様子を窺っている様子。気になってはいるようだが、敢えて口を閉ざしているというところか。この人が空気を読むなんて珍しい事だ。ちょっと面白い。
しかしまあ、からかう気にもなれない。
なにせ問題は僕の体のことだ。
落雷で倒れた後、失神から目覚めてすぐの時には、手の中にもっとはっきりとした感触があった。それはやわらかく、確かな温もりがあった。力を込めれば掴めそうな気がした。しかし手の中には何もない。僕は目を閉じて何度かその感覚を確かめようとしたが、虚しくて力の無い握りこぶしができるばかりだった。
そして一方で、頭の中に夢の残滓のようなものがわだかまっていた。
誰かが居た。僕の隣に。
イメージが微かな頭痛とともに何度か脳裏をよぎったが、そのどれもが水を被った水彩画みたいに輪郭を成していなかった。
そんな朧げなイメージすら、事象の推移とともに失われていった。眠りから覚めた後で急速に失われていく夢のように、音もなく、跡形もなく。今思い出そうとしても、まるで取っ掛かりが分からない。声も届かないほど深く掘られた穴の奥に引きこもってしまったのかも知れない。
日常生活や業務遂行上必要な記憶力、思考力などに問題はない。
むしろ、以前よりも無駄のない動きが出来るようになった気がしている。
それゆえに、何か物足りない感じがしている自分が不思議でもある。
そうなのだ。
脳内のイメージや手の平の感触が失われても、「何か足りない」という思いだけはずっと感じているのだ。
僕はもう一度クセの付いた自分の手を眺めた。
いちど目一杯に開き、それからぐっと握りしめた。
「んじゃーて、行くかぁ!」
いきなり起き上がった先輩の声に応じて、帰還航路への最終チェックに入った。
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