第2話 確率フレア

 部屋に置いてきた荷物の未来を案じるユカマリを、先輩は懸命になだめている。

 ホテルの一角に発生した時空の歪みは、最初の内は丸い水槽を通してものを見ている時のような淡い映像の揺らぎを見せていただけだったのが、球体の表面が少しずつ活性化して、絵の具をぐちゃ混ぜにしたような原形をとどめない模様になり始めていた。

「今近付いたら危ないんだよー。【シュレーディンガーの化け猫】を見たら、とにかく距離をとるってのが鉄則なんだよー」

「でもお気に入りの服ばっかり入れてきたんだよ!? プールボールで二人に見せようと思ってたすんごい水着も入ってるのに。どうなっちゃうのかも分からないなんてどういうことなの? 今日の為に奮発したんだよ?! ねえ、どうにかならないの」

 先輩は「すんごい水着」のあたりで視線を泳がせてゴクリと喉を鳴らした。おそらく妄想が理性に穴を開けて現実をリライトしようとしているのだろう。

 ユカマリもユカマリで、そういう効果を敢えて狙った発言ではないだろうか。彼女は格下を料理するボクサーのような目をして、ひとことひとことの継ぎ目で先輩の表情に冷徹な分析の目を向けている。自分の言葉が与えた効果を観察している。その真剣な眼差し以外の仕草や表情は、洗練された嬌態で仕立てられており、まともに正面から戦って勝つのは至難の業と思われた。

 ユカマリのそういう一面は、端で見ている僕からするとなかなかに面白くて、思わず見入ってしまうのだが、我知らず愚直なサンドバッグと化してしまった先輩に救いの手を差し伸べたくなるのも人情と言うものだ。

「確率振動の中心地には事象の境界線があると言われてっから、やめといたほうがいいよ」

 僕がそう言うと、ユカマリは首だけ素早くこちらに向けた。

「なにそれ」

「ブラックホールと変わらないんだ。重力はないけど、確率変動率百パーセントの世界だ。近付けば自分の存在が限りなく未確定に近付いていく。もちろん、理論的にはって事だけど」

「もう、さっきから全然意味分かんないんだから。普通の言葉使ってよ」

「あそこに行ったら死んじゃうの」

「う……」

 ユカマリはさすがに二の句をつぐんだ。

「そうそう。そうなんだよー。だめだよー。行っちゃだめだめ」

 すかさず先輩が合いの手を入れる。こういう嗅覚は抜群の先輩。

「じゃあ、もう諦めて見てるしかないの?」

 半ば観念したようにユカマリが言った。

「そういう事だね」

「あーん。私の荷物ぅ」

「こ、こんど俺なにかプレゼントするよ。お詫びに。ま、また改めて誘うからさ」

「高かったんだよぉ」

「そ、そうなの? 高いの? い、いいよ。買っちゃおう」

「本当~?」

「先輩、無理しない方がいいんじゃ」

 ガラスにひびが入ったような音がして、寒冷地のような張りつめた空気が伝わってきた。

 見ると、【化け猫】の表面が更に変化している。ぴりぴりと小さな雷が球体の表面で踊っている。確率フレアと呼ばれる放電現象だ。

「そろそろ始まるな……」

「どうなるの?」

「イベントリライト。事象改稿。現実の書き替えさ。いま、あの場所で、世界の流れが変わろうとしているんだ。どんな未来が選ばれるのか、それは誰にも分からない」

「ま、宇宙規模で考えれば、些細な変化なんだけどな」

「どんな未来にしようとか、神様も迷ったりするのかな」

「神様?」

「だって、そういう事でしょ」

「宗教は関係ないよ」

「宗教とかじゃなくて……」

 その時だった。

 また、ガラスの割れる音がした。こんどのはひときわ大きな反響。

 【化け猫】に目を向けると、表面で踊っていたフレアの一つがその触手を急速に伸ばしてきて、まっすぐに僕らのいる場所に向かって飛んできた。それはまさしく光の速さで、避ける事を考える間もなく、僕はその雷に撃たれた。


 一瞬の出来事で、気がつくと僕はホテルの部屋の中にいた。

 目の前が真っ白になって何も見えなくなった時、僕は死ぬのだろうかという考えが浮かんだが、それ以上あれこれと思う間もなく、考えは打ち消された。「眩しい」と思った次の瞬間には、視覚はもう回復していたのだ。

 セミスイートのクローゼットの脇に固めて置かれた荷物を見て、それが自分たちの私物だとすぐに分かった。

 いったい何が起きたのだろう?

 いきなりテレポーテーションの能力にでも目覚めたのか?

 それともやっぱり死んでしまったのか。

 確率フレアがあんな動きをするなんて聞いた事がない。ほぼ間違いなく安全と思われる距離に居たはずなのに。どうしてこんなことに。いや、そもそもどんなことになってるんだ? 僕はいったい……

「わ、戻ってきちゃった」

 声に振り向くとユカマリが居た。呆然とした顔で、口がぽっくり開いてしまっている。きっと僕もこんな顔してるに違いない。少しほっとする。

「なにこれ、どうしちゃったの? 私、って言うか私たち、って言うか」

「先輩は、居ないな」

 あたりを見回すと、僕とユカマリの二人だけだった。

 何はともあれ、彼女の顔を見た事で僕は落ち着きを取り戻せた。

 改めて考えてみる。

 さっきまで僕らは丘の上でホテルに重なって発生した【シュレーディンガーの化け猫】を半ば観光気分で眺めていた。確率振動が活性化して確率フレアの電磁波が現れ、その内の一つが飛び出してきて僕を撃った。おそらくその時同時にユカマリも撃たれた。先輩は運良く難を逃れたものと推測される。そして僕とユカマリの二人だけがホテルの部屋へと飛ばされた。

 ユカマリが、僕の腕にしがみつくような感じで身体ごと絡めてきた。

「ちょっとここ、変だよね……」

「ああ」

 部屋の中は、確かにおかしかった。あらゆる色彩が鮮度を失って、淡泊で味気ない色合いになっていた。明るさを感じない反面、暗いとも思わなかった。天井を見上げると、照明が点いている様子はなかった。かと言って見えているものがモノクロ調になっている訳ではない。色はある。ただ、物凄く、薄いのだ。

「ここ、どこ?」

 ユカマリが聞いた。

「ホテル、だと思う」

「でも、それって」

「うん。【化け猫】の腹の中ってことになる」

「じゃあ、やっぱり私たち、死んじゃったの? さっきそう言ってたよね」

「あくまで、理論的にって事だから……」

 そう言いながらも僕は自信がない。何故こんなことになったのか全く分からないのだ。ここが死後の世界なんかじゃないと、どうして言い切れるだろう。

 パキン、とどこかでガラスがひび割れるような音がした。

 リビングスペースの一角で、空間にひびが入っていた。それから、重量に耐えかねたような感じでパキンパキンとひび割れが広がり、分岐し、拡散する。その現象は、空間のある一点を中心にして起きているようで、ひびはそこから四方八方十六方に伸びて、粗い網目の球体に見えるようになるまで発展した。その向こう側にあるソファの形が隠れてしまうくらいにその球体が大きくなると、あちこちに伸びた亀裂の先端が触れ合い、交じり合うようになり、その間を埋めるように更に細かい亀裂が生まれる。毛細血管の成長過程を早送りで見せられているみたいだ。

 腕に当たるユカマリの感触が、僕の冷静さを繋ぎ止めていた。

 なにも言葉に出来ない。

 ただ見守るしか出来る事がない。

 肩口で小さな呻き声。

 ほぼ同時に、今度は派手な音を立てて、空間が割れた。

 白い光。

 さっき僕が見たような。

 眩しさに目を閉じる。

 ユカマリは、僕を盾にするように、じりじりと移動していく。

 一瞬の内に部屋の中を真っ白に染めた光は、瞬く間に収束する。

 恐る恐る目を開くと、そこに新たな人影が。

 亀裂のボールは消え去って、替わりに現れた二人の人物を、まじまじと見つめる。

 男の腕にすがる女。女を庇うようにしている男。

 僕らと似ている。

 よく見れば顔もほとんど同じだ。

 ……ちょっと、似過ぎている。

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