イベントリライト

第1話 シュレーディンガーの化け猫

 可視光線透過率を極限まで高めたガラスチックドームの彼方に広がる限りなく無限に近い星空を眺めながら、僕と先輩とユカマリの三人は頭を突っつき合わせた『小』の字になって、丘のてっぺんで寝ころんでいた。一番小さいユカマリが真ん中だ。

「時間ってもう無意味よね」

 とユカマリは言った。

 そうかも知れない、と僕は思った。

 時間が一方向に流れる時代はもう終わったのだ。

 僕らはただ推移していく。

 いつの間にか人の認識は広がって、時間に縛られる事はなくなった。一方で、どのような経過を経ようとも人の体は成長し、老衰していくという現実は変わらなかった。僕らは時間に縛られない。ただし、変化が止まる事もない。相も変わらず、生まれ、死んでゆく身の上。

「俺の予測寿命、五十八年プラスマイナス二十年だってさ。超微妙じゃねえ?」

 そう言ったのは先輩だ。

 時間感覚が変わった替わりみたいに、DNA鑑定の進歩で生まれた時から僕らの寿命は大体分かってしまうようになった。これはもうどこの時間軸でも制度化が進んでいる。必然の未来と言う訳だ。もちろん、人為的な事件、事故の可能性は除外しての話だが。

「それ、誤差範囲、広過ぎっすね。三十八とか、もうあっという間に来ますよ。油断してたら」

「なんかよう、『年』で計るの、もう止めて欲しいよなー」

「どんな計り方したって寿命は来ますよ」

「えー? でも、せめて秒で計ったら、人生も膨大な感じにならんかなぁ」

「何すか、その現実逃避は」

「だってさー、儚いじゃん。俺の命が」

「誰の命も平等に儚いんすよ」

「もう、せっかくの月の星空なのに、しょうもない話やめてよね」

 ユカマリのひとことで僕らは黙った。

 先輩は口を開きかけて何か言いたそうだったが、どうやらなけなしの感受性を総動員させる事に成功したらしく、ゴクリと言葉を飲み込む音が聞こえただけだった。


 そう。我々は今、月面都市ハッシュ・ガッシュの郊外で束の間の休息を楽しんでいるのだ。

 次元運送屋『ウツツトライカ(現と来過)』の仕事が一段落して、寿命時間三ヶ月以内に元の時間軸に戻ればいくらかのまとまった金が手に入る事になっているから、僕も先輩も財布のヒモを緩める事で珍しく意気投合した。

 木星付近のラグランジュポイントに、トポロジクス社によってワームポイントが建設されたこの時間帯においてすら、月のホテルはまるで安くはないのだが、それも仕方ない。外から見る地球はいつになっても忘れられないくらいに美しく、それ以外の星の輝きも負けじと素晴らしい。地球が近い、という安心感も心理的デコレート効果を発揮する。ここはまぎれもない高級リゾート地なのだ。平行するどこの時間軸においても、この傾向はおおむね共通のものだと言える。

 ユカマリを誘いだせたのは、数少ない先輩の功績の中では文句なしのトップランクに入れられるだろう。

 彼女は僕らがこの時間軸を訪れる時にしょっちゅう立ち寄るガールズクラブの筆頭アイドルで、こうして僕らと時を供にしているのがにわかには信じられないくらいだ。人気者だけあって予約一つ取るのも難しく、店の外で会うとなると約束を取り付けるだけでも至難の業なのだが、先輩は仕事中にはまるで見せた事のない巧みで粘り強い交渉術と月面バカンスという切り札を駆使して、彼女に休暇を取らせる事に成功した。

 ユカマリは、丸顔でショートカットが似合う小柄な女の子だ。童顔ではないが、笑うと幼さを残した表情が浮かぶ。それでいて、ふとした時に何かを憂いているような雰囲気を漂わせる時があって、そのギャップには軽い衝撃すら覚える。そう言った繊細な変化が男達を無意識の内に引き寄せるのだ、と僕は勝手に分析しているのだが、もちろん先輩にはそんな事を考えている節はない。この人はただ欲望に素直なだけだ。

 しかしそのような分析を全て度外視してみても、単純に彼女は可愛い。

 こんな娘がすぐ近くにいて、気分の悪くなる男なんていないだろう。休暇の道連れとしては最高だ。

 ましてこれから訪れる夜の事を思えば、溜まった疲れをリフレッシュどころか、バッテリーフル充電で五、六本分の予備も用意出来そうに思えてくる。


「あ」

 と言ってユカマリが上半身を起こした。

 それは急な動きだったので、僕は少し驚いてしまった。

「どしたの」

 と僕が聞く。

「あそこ」

 ユカマリは前方を指さしている。

 ハッシュ・ガッシュは中規模クレーターを基礎にして建設されたリゾート都市だが、その南寄りの区域に建造された疑似自然公園に僕らは居て、彼女が指し示した方向はクレーターの中央付近、都市の中枢部の辺りだ。

「何?」

 と言って僕は目を凝らす。

「ビルが歪んでる」

 確かにユカマリの言う通りだった。建物の一部が靄がかかったみたいに霞み、蜃気楼のように歪んでいる。その歪みはビルの一点を中心にして、丸い形をしていた。もちろんそんな自然現象が発生した訳ではないだろう。ここは月面で、クレーターを覆うドーム内は完全に空調管理されているし、局所的な大気現象が起きると言う話も聞いた事がない。

 とすると……

「ああ、あそこ、混ざってんなぁ」

 いかにも眠そうな声を出しながら、先輩がそう言った。

「混ざってる?」

 ユカマリが聞き返す。

 やはりそうなのか。

「確率振動だよ。どこか近くの時間軸で事件でも起きたのかもな」

「あれがそうなんだ。俺、初めて生で見ました」

「んあ? そうなの? この仕事やってりゃそう珍しくもないぜ」

「ね、何? あれ、なんなの? 教えてよぉ」

 ユカマリが僕の袖口をつまんでいた。見ると、もう片方の手を先輩の肩に置いていた。何となく、バランスの取り方が絶妙だな、と思った。器用なものだ。先輩は早くも顔がデレている。直前までの眠たげな声はどこに行った。相変わらずの切り替えの速さだ。

「あれは【シュレーディンガーの化け猫】って呼ばれてる」

「何? そのシュレ何とかって」

「シュレーディンガーは大昔の学者さんだったかな。んで、んーと。……ギンミ、お前、詳しいよな」

「ええ? そんないきなり振られても……」

 ユカマリはクイクイと僕の袖口を魚を誘うみたいに引っ張ってねだるような顔をした。

 ああもう、めちゃめちゃ可愛い。

「ん……とね。要するに、隣り合ういくつかの時間軸があって、つまりはパラレルワールドのことなんだけど。距離の近いパラレルワールドは似てるんだ。その似通った世界のどこかで大きな事件が起きると、その影響が他の時間軸にも伝わってしまう。世界を成立させてる条件が大なり小なり変わる。そういう事件が起きた時に生じる時空のゆらぎが確率振動と呼ばれてるんだ」

「…………よく解らないけど、事件なのね?!」

 ユカマリは一瞬キツネにつままれたような顔をした後、そう言った。

 そうです。事件です。問題はそこ。

 僕は精いっぱい上手く説明したつもりだったけど、力及ばず。でもこんなのはどうせやればやるほどキリがない。

「ま、そういう事だねー。あの丸く歪んでいる奴が【シュレーディンガーの化け猫】と呼ばれていて、あの歪みの中で起こっている事象が、より有り得べき高い確率を持ったものに書き換えられている所なんだ」

「なんか、難しい」

「説明するとなるとなあ……。タイムワープ自由化以前には起こりえなかった事なんだけど」

「もっと簡単な言い方無いの? って言うか、何の事件が起きてるの?」

「…………ごめん、どっちもわかんない」

 諸手を挙げて降参する。

「へへっ。今ごろワームルートがフリーズ起こしてるぜ」

「他人事じゃないっすよ。俺達だっていつ巻き込まれるか分かったもんじゃねーし」

 鼻で笑った先輩をたしなめつつ、僕はとても嫌な事に気がついた。

「あのビル……俺達の泊まってるホテルじゃないすか? しかもあの辺って」

「我々の宿泊する部屋の辺りだな」

 先輩のその言葉をきっかけに、僕らは顔を見合わせた。

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