第23話
おやつの時間よ、と妻が言い、娘用の何か良く分からないドロっとした形状のおやつと、私にはホットケーキを焼いて持ってきた。休みの日でも、自分以外の人間が口にするものを決まった時間帯に用意する妻に、私は心から頭を下げたが、口ではただ簡単に「ありがとう」と言っただけだった。
妻はおやつを食べることもなく、忙しく家事を続けていた。私は眠気に襲われソファで眠った。しばらくしてから目を覚ますと娘はテレビの前に立ちはだかり、体を動かしたり床のカーペットの上で寝転んだりして大人しく遊んでいた。私は細く目を開けて、その様子を黙って見ていた。しばらくすると娘が私の方に近寄り頬を叩き始めた。キャキャと笑いながら、いつまでも叩いた。私はしかたなく起き上がり、娘を膝の上に乗せた。娘は私の膝の上に馴染まず、早々に降りたがった。
私は床に娘を立たせ、妻に、娘と散歩へ行ってくる、と言った。
妻が、
「もうすぐ暗くなるわよ」と言うので、
「ちょっとだけ。すぐ戻るから」
私はそう言って、ソファから立ち上がった。
「まだ掃除が残ってるから助かるけど、気を付けて。外は寒いかしらね」
と言いながらも、素早く娘に外出用の冬の装いをさせた。
年末が近づき、大掃除しなきゃ、というのが妻の口癖となっていた。新築の家が、年々汚れを蓄積させていくのは仕方がないが、それをできるだけ綺麗に保とうとしている妻は、こんな安っぽい家のために必死になっていて、おそらくそれは、妻の一生涯、毎年巡り続くのだろう。私は手伝うどころか、ひそかにそれを蔑みそして心苦しく思った。
自慢の我が家、とは恥ずかしくて言えない程の質素な住まいから娘を連れ出した。いつも玄関を出るたびに、誰も居やしないのに人の視線を気にしていた。それは、自分の容姿を気にするものではなく、この家から出た姿を見られたくなかったからだった。なぜだろうか、私は己の家を大切に思えなかったし、価値ある物とも思えなかった。一生に一度の大きな買い物をどうしても好きになれなかった。
娘の体は細く小さく、まだ私の片腕の中にすっぽりと入った。妻は日頃、娘の成長が標準よりも遅いのではないかと心配していた。娘を抱いた感触で、少し瘦せているかなとは思ったが、それが良いのか悪いのかは、良く分からなかった。
十二月とはいえ、その日は暖かい日だった。娘を右腕で抱きかかえ、まだ少し陽の射しこむ森の中へ入って行った。家の裏山と住宅地との間には、柵で隔たりがあるわけではなく、誰でも入れるようになっていた。自然のままで遊歩道が作られているわけでもなく、急斜面に木々が立ち並び、どこに足を踏み込んで歩けばいいのか迷う程野生的だった。
静かに木漏れ日が射しこんできた。木々に緑はない季節、足元には紅葉を終えた枯れ葉が、厚み十センチはありそうな程ふかふかと積もっていた。水分を失った葉の上に靴を乗せると、カサカサカサ、としつこい音が続いて響いた。
時折、鳥の鳴き声がした。癖のある鳴き声の方向へ目を向けると、とんびが両翼を大きく広げて、気持ちよさそうに円を描いていた。あの鳴き声がとんびかどうか定かではないが、恐らくそうだろうと、自分で決めた。
「やっと、お母さん、って言うようになったの」
嬉しそうに言う妻の言葉を思い出した。
「早くお父さんって言えるようになるといいね」
という意地悪そうな笑顔、それは見慣れた妻の得意な表情だった。
「おかさん」
私の右耳に、舌足らずの声が聞こえた。娘の声は自信なく響いた。
「おかさん」
娘が再び言った。私は娘を腕から下ろし、枯れ葉の上に立たせた。
妻が靴を履かせていた。小さく、カサと枯れ葉が音を出した。私は娘の頭頂部を真上から見下ろした。
私の膝よりも少し大きいくらいの背丈から、娘は私を見上げ、再び「おかさん」と言った。両手が膝にしがみつく。娘の言葉に、意味はないのかもしれない。
歩行がまだ完ぺきではない娘の手を引っ張り、山の斜面を登り始めた。娘の柔らかい左手は暖かかった。真っ赤なニット帽を被り、首には紐でつながった手袋をぶら下げていた。娘がぎこちなく歩行するリズムにしたがって、その手袋は大きく揺れた。私に引っ張られ、時々足が宙に浮くのが娘は楽しかったようで、その度に小さくクルクルと笑った。私はさらに強く娘の手を握るだけで、何も面白くはなかった。
腕時計を見ると、時刻は夕方の五時近くだった。気温も下がりすっかり暗くなってきていた。
「てーて」
初めて聞く言葉だった。娘は「てーて」と言いながら、首にぶら下がる手袋を触っていた。手袋の事も覚え始めているらしい。私はそれに言葉では答えず、少し笑って斜面の下を見下ろした。
結構な距離を歩いてきた。時間にして十五分くらいの所だが、そこは家からかなり離れた場所でこの造成地の住人達はこんな場所があるとは知らないだろう。斜面の上を見上げると、木々の合間から薄暗い空が見え、もう少しでてっぺんまで届きそうだった。
何度も「てーて」と繰り返し言う娘の手に、私は手袋をかぶせた。ミトン型の手袋に娘の小さな手はスムーズに入った。再び「てーて」と言いながら、笑顔を見せた娘がなんだか私にとっては全く知らない生き物に見えた。
こんもりとした枯れ葉の上に腰を下ろすと、私の目線の高さに娘の顔があった。頬に赤みが増していて、寒いのだろうか鼻の頭は真っ赤だった。娘は私の真似をして隣にちょこんと座った。枯れ葉の下の方が少し湿っぽく、お尻がじわりと冷たかった。娘はキャキャと声を出し、カサカサの枯れ葉をミトンの両手で掬っては、投げたりして遊び始めた。枯れ葉の上にお尻を付け両足を伸ばして座る娘は、公園で遊んでいるのと変わらない、ただの子供だった。いや、まだ赤ん坊だ。
娘が遊んでいるうちに私は立ち上がった。私が二、三歩歩きだしても、娘は立ち上がることなく、手袋を被された自分の手を見て喜び、枯れ葉で遊び続けていた。何度も「てーて」という言葉を繰り返していた。
少しずつ、娘の声が小さくなっていた。私は足元にカサカサと音を立てながら、その場から静かに離れた。しばらく歩いて振り向くと娘の姿も暗闇に消えていた。そして声はもう聞こえなかった。
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