第18話

 駅からは歩いて二十分と言われていたが、大人の男が歩いても二十五分はかかった。造成地に入りすぐ右に曲がる。二本目の道を左折し、突き当りを右に曲がる。そして右側の並び三軒目が自宅。

 最初の頃は呪文のように言葉を繰り返した。それが楽しいゲームのようであったが、慣れればそんな事を思い浮かべずとも自宅にたどり着くことができた。楽しんでいた頃が、嘘のようだ。幼かった自分を恥ずかしく思う。


 自宅脇にはそのままの自然が残っていた。その側で暮らしていたからか、歩くことが増えたからか知らないが、季節の変わり目を感じる日が多かった。山の桜が咲いて散ったり、足元にアリが多くなったり、小学生のように楽しんでいた。安本や林には、そんなどうでも良い話もしたが、家では特に何も話さなかった。

 妻には遠慮していた。一度も本音を言ったことはない、と言った方が良いのかもしれない。見えない壁を作って、出来るだけ関わらないで済むようにしていた。何故だか分からない。妻に限ったことではない。私は、誰にだって遠慮して生きていた。学校の友達にも、塾の先生にも、時々、風邪をひいた時に行く小さな病院の医者にさえ、恐縮し遠慮していた。両親の前でさえ、思ったままの言葉は使えない子供だった。

 娘の世話は全て妻任せ、協力する事もなく、そして口出しする事もなく、娘が今、ミルクを飲んでいるのか離乳食なのか、それすら分からない状態で新居に居場所を見つけるのは難儀だった。いや、最初はそう思っていたが、本当は見つけようともしていなかったのかもしれない。


 私が選んだカーテンは、やはり部屋との一体感を生まなかった。そして、いつの間にか新しいものに変えられていた。

 気が付いたが、妻には何も言わないでいた。

「やっぱり変えたよ」

「え?」

「カーテン、そこの」

「あ、ああ、そう」

「気が付かなかった?」

「あ、うん」

「あんまり興味ないのね、この家に」

「そんなことないよ」

「まあいいけど。あのね、庭に木を植えたいんだけど、ほら、あなたの高校の友達で、造園屋さんやってる人がいるって言ってたじゃない? その人に頼めないかしらって思って」

「木って、どこに植えるの?」

「庭のフェンス越しにね、ずらーっと。木が生い茂ると庭が隠れるくらいに」

「ふーん」

「今、庭が丸見えじゃない? この前も、隣のKさんにね、洗濯物の干し方を注意されてさ。嫌になっちゃう。見てるのよ、いちいち。暇なのね、あの人」

 隣人に洗濯物の事を言われたらそれは嫌だろう。その不満に関しては私も同感した。

「できるだけ早めに連絡してみてくれない?」

「ああ、明日にでも電話するよ」

 妻の生活はここが全てだ。この家こそが妻の生きる場所なのだ。しかしここは、自由なようで全く不自由な世界だ。私は妻を哀れに思い、勝手に同情した。娘と二人きりで一日を終える。一人で笑いもすれば、泣きもするのだろう。

 

 翌日、高校時代の友人Hに電話をした。親から引き継いだ、個人の小さな造園会社を経営していた。細々とだが三代目として会社を続けているHの事は、噂で聞いていた。

 電話に出た事務員からHに取り次いでもらうまで、随分と待たされた。やっと電話口から聞こえてきたHの声は、高校時代の記憶よりも大人びていた。

「ごめん、今から外に出なきゃいけなくて」

 慌てた様子で言うので、頼みたいことを簡潔に伝えると「来週なら時間がある」とHは答えた。私は妻がいつでも家にいるので都合のいい時に話を聞いてみてくれないかと頼み、住所と電話番号を伝えた。


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