第17話

 引っ越した翌日から私は妻の運転で駅まで送ってもらう事になった。

 駅まで歩いて行くのも悪くはなかったが、妻は何となく私に申し訳なく思っているようで、朝から娘を車に乗せて、私を駅へと送り届けるのだ。


 通勤ラッシュとは無縁の、取り残されたような終点駅は無人駅で、しん、としている。そこから始発となり折り返す単線は、冬の寒さも合わさって孤独だった。

 私が乗る時間の電車には、私以外に一人の男子高校生ともう一人、高齢のおばあさんしかいなかった。途中で電車を降り、別方面へ走る電車に乗り換える。その電車は街に直結しているので多くの人が乗り合わせている。いきなり満員電車に乗り換えるのは相当なストレスだったが仕方がなかった。男子高校生もおばあさんも同じ駅で降り、同じ電車に乗り換えていた。二人の姿は、いつもすぐに人混みの中へ消えてなくなった。


 新居に引っ越してから妻の機嫌が良い日も増えたが、基本的にはあまり様子は変わっていなかった。子育ての相談をされても「君に任せるよ」と答えるしかなかった。

「あなたにしか相談できないでしょ、こんなこと」

 不満そうに言い、その後は妻の独演が始まる。私は聞き流すだけで、状況を知るだけだった。

「近所に、同じくらいの子がいる家はないの?」

 と渾身の言葉を出してみた。

「居るわよ、四丁目に一軒できたでしょ。あそこね、Eさんって言うんだけど、変わった苗字よね。でね、そのお宅にちょうど半年の赤ちゃんが居るのよ。」

「良いじゃない」

「良いって?」

「共通の話題とかありそうだし」

「そうは言っても、初めて会うような人に、そんなに簡単に悩みを相談できるものでもないわよ。想像してみてよ」

 妻はあまり乗り気ではない様子だったが、翌日、Eさんと話して、随分楽になった、と言ったので、前日の会話も無駄ではなかったと思った。それ以上の感情は棄て去った。


「明日からは歩いて行くよ」

 と私が言った翌日から、駅まで歩くことになった。妻はもう、車に乗る準備などしなかった。その分、朝の家事を忙しくしているようにも見えた。

 アルコールを飲んだ晩は、寂しい駅で降りるのが心細かった。頼るものがない深いプールの真ん中に突き落とされるような気持ちだ。誰も居ない。朝出会う高校生も、おばあさんも居ない。手の届く所には、何もない。暗闇に空虚が広がっていた。

 駅前にはバス停が一つあり、時々、タクシーがぽつんと止まったりしていたが、人が乗ったり降りたりしているのを見た事はなかった。同じ住宅地に住んでいる人達は、誰一人電車通勤などしていない。皆、車通勤だ。

 街灯は、ポツポツと灯っていたが、足元を照らすには暗すぎた。この町に未来を見出す事は無理だった。

 私はこの極端さに、徐々に快適さを感じ始めた。静かな田舎から騒がしい街へと通勤する事で、スイッチをうまく切り替えられていた。安本と林との付き合いもあり、どんなに不満があっても、少しの満足があれば、かえってそれを楽しめた。


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