第9話

 美容院から帰ると「やっぱり短いの似合うね」と妻は満足そうだった。自分の隣に立つ男の容姿は重要らしい。私は短髪を褒められて、ふと、幼少の頃に家で飼っていた猫を思い出した。

 

 小学校低学年の頃、床屋へ行くのが嫌で髪の毛を伸ばし過ぎていた私は「いい加減切りに行きなさい」と母に叱られ、手を引っ張られ無理矢理に近所の床屋に連れて行かれた。

 母は、店に入るなり「しばらく切らなくてもいいくらいに短く切ってやってちょうだい」と言ってお金だけ払い、さっさと出て行った。余程、私に腹を立てていたのだろうが、そんな態度の母を見たのは初めてだった。それから、私の髪の毛は、バッサバッサと切られて、鏡に映る自分が、見慣れた自分ではなくなっていくことに恐怖を感じた。

 明日、学校へ行けない、と涙がジワリと浮かんだ。床屋のおじさんは、そんな私の変化に気が付きもせず、無愛想に鋏を動かすだけだった。そのうち上半身を前傾させられ、熱いお湯で頭を洗われた。私はすっかり力を無くし、仕上げのドライヤーの熱に頭皮がやけどをするのではないかと、少し恐れながらも無力なまま、早く髪の毛が乾くように願った。

 大きな鏡の中の自分に、これは自分ではない別の誰かだ、と言い聞かせながら座っていた。

「はいよ」

 床屋のおじさんの軽い言葉で完成した。私は、体を覆っていたケープを脱がされ、小さなガムを一つもらい、店から追い出されるようにして出た。子供には頑張ったご褒美にガムを渡している床屋だった。

 家に持ち帰ったガムを机の上に放置した。その時、外へ遊びに行っていた飼い猫のTが、私の部屋の窓からのっそりと帰ってきた。窓に向き合うようにして配置してある私の机の上を、汚れた肉球で遠慮がちに歩いた。私の部屋の窓は、Tが外出する時の通り道となっていたのだ。机の上のガムをしばらくクンクンと匂い、そして机の上からぴょんと飛び降りると、私を仰ぎ見て、小さく「ニャ」と鳴いてから、部屋を出て行った。

 私はTの丸い後姿を見送り、大きなため息をついて、部屋にある小さい手鏡で自分の頭部を確かめた。切られた頭髪は、どのくらいで元に戻るのだろう。少し引っ張ってみても痛いだけだった。目から涙が落ちた。私は手鏡を持ったままベッドに腰掛け、ますます涙が出るのを止められずにいた。すると、再びTが私の部屋にやってきてベッドに飛び乗り、私の隣にちょこんと座った。甘えるように体をくっつけてきた。Tはそのまま眠りについた。

 私は泣きながら、Tの小さい体から生まれる体温を感じた。静かに背中をなでるとTは少し目を開け、小さい声を出した。Tのお陰で、私はまだ私のままだと思えた。その後も涙はなかなか止まらず、私はTに触れながら泣き続けた。


 意思に反して短く切ってしまった頭髪に手をやると、所々、チクチクとした。あの時の感触と似ていた。さすがに泣きはしないが、似合うと言われても、素直に納得はできなかった。 

 その後の事は、滞りなく進んだ。妻と共に、招待状を封入し、切手を貼り投函、予定通りの結婚式と披露宴を行った。会社の上司や昔の友人、もちろん安本と林も招待した。妻も、以前勤めていたスーパーの店長や同僚、中学校時代の友人も招待し、それは騒がしい宴となった。私は、中学の同級生に散々冷やかされた。妻は綺麗に着飾り、短髪の私の隣で普段は見せない笑顔を振りまいていた。


 雛壇に座る私の元に、瓶ビールを持った安本とアルコールが入り過ぎて頬を真っ赤にした林がやってきた。

「豪華な披露宴だな」

 安本が言った。

「奥さん綺麗じゃないか」

 林が言った。二人の問いに、私は笑って答えた。

「飲んでる?」

 安本は私の手元のコップにビールを注ごうと、持っていた瓶ビールを持ち上げた。

「さすがに、あんまり飲めないよ。ありがとう」

 私はそう言って、グラスの飲み残しを足元のバケツに捨て、安本の酌を受けた。

「お前、大丈夫か?」

 安本は、私の耳元で囁いた。まただ、と思った。体が一気に熱くなった。安本が仕掛ける、私への愛情ある意地悪だ。すべて見抜かれている。かなわない。

「大丈夫に見える?」

 私はそう言うと、安本は、大きく息を吐いてから微笑し、

「全然」

 と答えた。

「やっぱり」

「でもまあ、自信持てよ」

 安本はそう言うと、小さくガッツポーズを作り、隣で目尻を垂らして立っている林の肘をつかんで、席に戻っていった。私は、安本の言葉にうっかり泣きそうになったのを必死に我慢した。もう簡単には泣けない。


 隣の妻は、黄色いドレスを着ていた。その日、二着目のドレスだった。式のために伸ばしていた髪の毛を綺麗に結ってもらい、友人たちと写真を撮っていた。私も呼ばれて妻の隣で微笑んだ。妻の友人は中学時代の知った顔と、私の全く知らない職場の同僚、それぞれ同じ人数が揃っていた。妻は社交家だ。人との付き合いを分け隔てなく、うまい具合に完成させていた。卒業して別れた友人にも、つい最近まで付き合いのあった同僚にも、新鮮かつ平穏に会話をつなげ、同じ様な表情で写真に納まっていた。

 この光景、現実に流れている事が信じ難かった。雛壇に二人、私は妻に寄り添うようにして体を左に傾け、斜の笑顔を作り上げた。

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