第8話
「短い方が似合うわよ。かっこよくしてきて」と妻に言われ、結婚式前に美容院へ行った。
二カ月に一回くらいの頻度で美容院へは通っていた。営業職という事もあり、身だしなみだけは恥ずかしくない様に整えていた。髪の毛の色も染めていた。明るめのブラウン。通い始めて丸一年の美容院だ。
美容院という所は不思議で、なぜか長い付き合いができないものだ。最初は、仕上がりに満足していたものが、徐々にあれなんか違うぞ、といった具合。そして、最終的には、この店はダメだという結論に至る。それが分かるのが大体一年。いつものペースなら、その美容院もそろそろ寿命が来る時期だった。
「どのくらい切りますか? 前回は、少し長めに切りましたけど」
いつもの美容師に言われ、
「思いっきり短めで」
とオーダーした。
「え、いいんですか?」
「ええ」
「それはまたどういう心境の変化ですか?」
黒ずくめのファッションをした男性美容師は真剣に驚いたフリをして言った。彼に髪の毛を切ってもらうようになってから、職場の女性や営業の出先などで、良い感じですね、と褒められたり、どこで切ってるんですか? と聞かれたりもして、満足度は高かった。
大学の頃に通っていた床屋では、髭を剃ってもらうのが気持ちよかった。当時は、ヘアースタイルに凝る事もなく、ただ自宅から近いというだけで、ずっと同じ店に通った。店に入れば、職人のようなおやじさんが、手招きで座る椅子を指さし、私は黙ってそこに腰を下ろすと、全自動ですべてが始まって終わった。その店には数年間通ったが、おやじさんと会話をしたことは一度もなかった。
初めて行った美容院での丁寧な接客に最初は戸惑ったが、それは世間では普通の事で、通っていた床屋が異常だったのだと知った。あ、いや、床屋とはそういうものなのかもしれないのだが。
積極的に会話をしてくる美容師と話しながら、そんな事を思い出していた。
「実は来週、結婚式なんです」
私は言いたくもなかったが、流れで話すしかなかった。人との会話には、少しの優しさと、同等なサービス精神が必要である。
「それはそれは、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「今、最っ高に幸せな時ですね」
テンションを変に高くした美容師は、真っ黒の上着を着ていたが少々サイズが大きい様子で、体からはみ出た感じのお洒落な洋服は本来の役割を果たせていないような寂しさがあった。
私はそんな容姿の美容師に、妙に心を許してしまった。
「それが、そう思えなかったりもするんです」
「あれ、それはマリッジブルーってやつですか?」
「え?」
「仕事柄ね、もうすぐ結婚、って方と話す機会が多いんですよ。殆ど女性ですけどね。この人でいいのかなあ、って言われる方、結構いらっしゃるんです。でも最近、男性にもあるらしいですよ、マリッジブルー」
「そうなんですか」
私は、静かに音楽が流れる店内で、リズムよく美容師と話した。
「精神的に不安定になったりするそうですよ。気を付けてくださいね」
「それなのかなあ」
「いやあ、しかし羨ましいですよ。お客さん、お若いから、まだまだこれからですよ」
「若いって、そうでもないですよ」
美容院の店内には、他に男女二名のスタッフとそれぞれにお客が居た。客は二人とも女性だった。椅子の間隔が広く、隣の客との会話は全く聞き取れない事を知っていた。私は安心して美容師と話した。
「私なんて、もう来年四十五ですからね。残りの人生、何ができるかってね、考えるだけですよ」
「それは大げさですよ」
「いやいや、後悔したくないですから。娘一人いますがね、まだ幼稚園で遊びたい盛りなんで。家に帰るより、ここに居た方が楽、なんてね。これから結婚する人に、こんなこと言ってはいけませんね」
そう言うと、美容師は「ははは」と笑った。それはまるで少年のような天真爛漫な笑いだった。彼は幸福なのだろうと思った。
「十二月になると、今年もあと何日で終わりですね、とか、一年早いねえ、って言うじゃないですか」突然真面目な顔をした美容師が会話の流れを変えた。
「それでね、去年の暮れ、お客さんとそんな会話をしていたんですが、最近、そんな焦る気持ちも無くなってきたな、とふと思ってね」
「それは、どういう?」
「師走だから、あれもこれもやらないと、とか思う訳でしょ、皆さん。あと、また一つ歳をとるとか、感傷的になったりね。でもそれがないんですよ」
「というと?」
「繰り返し過ぎたのかなあ。慣れた、と言ってもいいかもしれませんね、時の流れに。早いとか、過ぎていくとか、そういう感覚に、感じ慣れたというのかな。まあ、そういうものなんですよね、生きるって」
慣れてしまえば、感情も変わる。新鮮な感情には喜びはあれど、流されるだけで苦しい。よどんでしまった感情には、おぼれない様に気を付けるだけでいい。しかし、歓喜する程の変化にも鈍感になる。
美容師に仕上げてもらった髪形は、かなり短かった。清潔感溢れる新郎に見えるだろう。私は、いつもよりも丁寧にお礼を言って、美容院を去った。次回も来れるような気がしなかった。
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