第6話
世の中は、春を待つばかり。また繰り返す季節の準備に忙しそうだ。桜が咲くのを日一日と待つ。人間も蠢く虫も同じだ。
夕方六時過ぎの街は人が溢れていた。私はいつもの定期で改札から入り、帰宅するのとは逆方向の電車に乗り込んだ。帰宅時間帯のせいか、朝の満員電車さながら、車内に一歩足を踏み入れるのにも「すみません」という言葉が必要だった。私がいつも職場で過ごしている時間にも、このような世界は流れている。ここにいる皆は、当たり前にして生きている。私もその中に紛れ込んだが、すぐに吐き捨てられそうな気配を感じた。
一駅先で降りるにも、反対側のドアが開くため、人をかき分けて降りなければならない、と思って約二分電車に揺られていたが、電車に乗っている人間のほとんどがその駅で下車したため、悩んだ数分は無駄だった。
流れに押されながら改札を出ようと、IC定期をかざすが、開閉バーが残高不足のため開かなかった。一気に滞る改札、私の後ろに並んでいた数人の行列は、一様に怒りをあらわにした。私は振り返り頭を下げ、逃げるようにしてICカードのチャージ機まで行き、その列に並んだ。人の波がすっかり減り、一瞬の静まりを迎えた改札をゆっくりと出た。
Mデパートに入ると、仕事帰りと思われる女性が多く居た。皆、何となく疲れた雰囲気はあるが、品定めをする顔は活き活きとして見えた。私は、エスカレーターで五階まで上がった。どの階にも、平日の夕方とは思えない程の人出があった。五階に到着すると正面に紙専門店があった。迷わずに済んで喜んだ。
店内を一巡した。見事に紙ばかりが並べられていた。色とりどりの紙。一言に紙と言っても、いろんな紙があるのだなあ、と思ったりもしたが、視界に写すだけで、触ってみることもしなかった。
私は、店内中央にあるカウンターに歩み寄った。
「いらっしゃいませ」上品な発声だった。
それが素敵に響き、またとてもデパートに似合っていた。きっちりとスーツを着こなした細身で長身の男性店員は、三十歳過ぎくらい。面長で丸い黒縁眼鏡をかけていた。目鼻口の全てが大きく、口を開くと、大きく何かを飲み込んでしまいそうな迫力があった。
「あの、これをお願いしたいのですが」
私は店員に、妻から預かっていた申込書を差し出した。他に客はいなかった。
「拝見いたします」
そう言って、しばらく書類に目を通し、
「神崎様、お待ちしておりました。本日、午前中にお電話をいただいておりまして」
「そうでしたか」
「はい。何度もお問い合わせをいただきまして、ありがとうございます。こちらの説明不足もございまして、お手数をお掛けしております。ご注文通り、期日までには確実にご用意させていただきますので、ご安心ください」
「いつ受け取りに来ればいいですか?」
「出来上がりのお品は、郵送させていただきますので、再度ご来店していただかなくても結構でございます」
「分かりました。支払いを」
「恐れ入ります。少々お待ちください」
店員はそう言って、カウンター内のレジ付近へ行き、ファイルから何やらペラリと紙を一枚取り出して、私の前に差し出した。数十通の招待状に、支払うにしては高額で驚いた。まだ切手代だって必要だ。
招待状は、用を果たせばゴミ箱行きだろう?
私は、店員にクレジットカードを渡し、支払いを終え、控えをもらって店を出た。用事を済ませたことを、妻にメールで告げた。返信はなかなか来なかった。私がこうして妻の言いなりに行動するのは、妻のやる事に、意見も反論も共感もないからだ。
Mデパートを出て、再び会社の最寄り駅で降りた。会社近くのいつもの焼き鳥屋へと、足は意識せずとも慣れた道をたどった。
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