第5話
妻は私と結婚する事で、つまらないスーパーの事務仕事から逃れられるのを喜んでいた。すぐにでも辞めたいという話を幾度と聞かされたが、年度末の三月までは勤めることにしたらしい。溜まった年休を利用し、三月の初旬には実質仕事を終えるようだった。
中学の同級生で、全く知らない者同士でもない、実家も近いという事で安心材料が多かったのだろう、互いの両親には反対もされず、平穏に祝福された。
両親の前では幸せそうな笑顔を作ることに努力した。この時の流れが、〇か×かを知る手段はなかった。私はできるだけ平静に、結婚に対して前向きに真摯に向き合い話し合った。妻が買ってきた結婚情報誌を教科書に、軽い気持ちで式場に出向き、いくつか下見をした。それぞれの場所にそれぞれのスタッフが居て、必死に説明を繰り返していた。皆一様に、アイロンをかけたばかりのような清潔なスーツを着て、笑顔もしっかり統一されていた。場所は違えども内容は全て同じだった。やる事は一緒なのだ。
どこでもいい。隠し持っている己の心が、時々顔を出した。慌てて隠すが、それはいつもどこかから私を見ていて、不意にいたずらをされた。
五軒の下見をして、最終的に決めたのは一軒目の式場だった。日にちの予約は電話で。本番までに式場には二回ほど足を運んだ。妻は一人で何度も打ち合わせに出向いたらしいが、男の私がすることは取り立てて何もなかった。
「どう思う? この紙。触り心地が悪すぎない? ざらざらして。しかも、色合いがね、これだけしかないのよね。もっと青っぽい色が欲しいのに」
妻は、招待状の見本を手にしていた。不満そうな横顔は顎が付きだしていて醜い。
「そうだね」そう答えた私に妻は、
「やっぱりこだわりたいのよ。Mデパートに、紙専門店があるんだけど知ってる?」
しばらく紙の話が続いた。招待状にさえ、見栄を張る。
数日後「これ、申し込み用紙なの。紙の種類と番号、必要枚数書いたから、お店の人に出すだけで分かるようになってる。あと、お金はあなたが払ってね」と言われ、私は快く請け負った。
Mデパートは、職場の最寄り駅から一つ先の駅で降りればすぐの所にあった。早めに仕事を切り上げ、Mデパートへ寄ろうとした日も、安本と林から食事に誘われた。事情を話すと、
「いつもの焼き鳥屋に居るからさ、用事が終わったら来いよ」
安本はいつもの薄ら笑いと共にそう言った。
「そうだな」私はそう答えると、
「無理しなくてもいいよ、早く帰りたいんじゃないの?」
林の得意な定型文が流れた。
「いや、行くよ」
「おう」
安本は満足そうに言い、口を小さく開けてニヤリと笑った。
「じゃあ、待ってるよ。気を付けて」
林は礼儀正しい。社交辞令のような言葉ばかりを並べるが、ちゃんと心はこもっている。
まだ仕事を残している安本や林、他の同僚たちを背に、私は入社以来初めて、定時ちょうどに職場から出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます