第299話 心の棘
(いっそ、このままデュラン様に身を寄せられたら、女としてどんなに幸せなことでしょうか。でもそれは……それだけは……)
ネリネは心で彼のことを思いつつも、いけないことだと自らの感情を律することに努めた。
もちろん今では彼の妻であるリサと、その子供達のことが気がかりでもあったのだが、それとは別に自分自身が幸せになってはいけないのだと、ネリネは思っていたからである。
心の中では自ら想いを寄せているデュランと添い遂げたいと思いながらも、彼女の中にあるもう一人の自分が邪魔をしている。
それは他の女性に対する嫉妬などではなく、自身に対する悲壮感の表れでもあった。
(私は幸せになってはいけない。幸せを望んではいけない。もしも私が幸せになってしまえば、周りの人を……大切に想いを寄せているデュラン様さえも、きっと不幸にしてしまう。そんなことになってしまえば、私は、私は……)
彼女は自身の心に言い聞かせる形で、内に秘めた感情を必死に押し殺そうとする。
「ネリネ……」
「あっ」
それが逆に彼の目には自分のせいで悲壮感に打ちひしがられながらも悲しみ、涙を堪えている姿に映ってしまったのかもしれない。
そっと目元に彼の優しい指が添えられ、涙を掬い取られているのが肌を通して感じ取ることが出来た。
彼の優しさに触れれば触れるほど、自らの心を封じ込めることができなくなっていくのを彼女は自覚する。
その彼が与えてくれる優しさに堪えきれずに、思わず顔を背けてしまった。
本当なら、ずっと彼に自分を見ていて欲しかった。
その瞳に映るのが自分だけでなくてもいい。彼の視線や心を自分だけで独り占めしたいなどと、一度も思ったこともない。
それでもこのとき、この一瞬だけでも彼の視線と心を与えられれば、自分は幸せなんだとこれまでは思っていた。
だがそれも今では彼の妻であるリサのように、女としての幸せを彼から与えて欲しいと思うようになってしまっていたのである。
これはいけない。
絶対にいけないこと。
(何故なら、私は彼に愛される資格がない。私は人から
それは既にデュランが妻を
彼女の母親は元娼婦であった。
だが、初めから彼女の母親も娼婦であったわけではない。
元々はどこか地方貴族の一人娘だったらしいのだが、ネリネの父親と結ばれることを両家から反対され、駆け落ちする形でこの街まで逃れてきたのだと、母親からは聞かされていた。
二人は着の身着のまま、それこそ何も持たずに見知らぬこの街へと逃げてきた。
まだ若い二人は互いが傍に居れば、幸せだと考えていた。
だがそんな二人の幸せな日々も、長くは続かない。
それはこの街に逃げてきてから半年後のことだった。
ネリネが生まれるとほぼ同時にネリネの父親は流行り病に侵されてしまい、妻の看病虚しくも呆気なくこの世を去ってしまうことになる。
悲しみの毎日に明け暮れ、涙を流したネリネの母親は何度も夫亡き後を追おうとしたが、ついにそれが叶うことはなかった。
それはまだ生まれたばかりのネリネの存在が彼女に生きる目的を与えたからである。
もし……もしもネリネが生まれてこなければ何の未練なく母親は崖から飛び降り、愛する夫の元へと逝っていたことだろう。
それからというもの、ネリネの母親は女手一つでネリネのことを育てることになる。
しかし彼女自身には何の能力もなく、また手に職もなかった。
そんな未亡人の若い女性が子供を養うため、また日々の糧を得るには言葉では言い表せないほど、想像を絶するような苦労があったことだろう。
時に自らの体を売り、時に亡き夫が綺麗だと褒めて撫でてくれた髪の毛を売り払い、そうして女手一つでネリネのことを育ててくれた。そんな彼女の母親だったが元々体が弱かったことが災いしてか、ネリネが物心付く頃には既に父親と同じ病に侵され
ネリネの母親は夫と同じ病で亡くなるのなら、本望だと思いこんでいた。
だが幸いだったのは、近代における衛生概念と医療の進歩である。
奇しくもネリネの父親が亡くなった年に新たな薬が世に出回ったことで、流行病の病状を一時的に抑えることができたのだ。
しかし、その対価はあまりにも暴利といえ、まだ年端のいかぬネリネは母親の代わりとして働き、日々の食べ物と母親に飲ます薬を買うためだけに若き青春、そのすべてを捧げてきた。
子供だったネリネが唯一できる仕事と言えば、市場で仕入れた薔薇を道行く人々に売り付けることだけだった。
これは後から分かったことらしいのだが、ネリネの両親が見知らぬ土地へと駆け落ちした理由……それはネリネを身ごもってしまったのが原因だったらしい。
その理由を知ってしまった彼女は自分のせいで父親が病で亡くなり、母親も長年に渡って病魔に侵され続け、両親ともに不幸となってしまったと勝手に思い込んでしまった。
自分のことを女手一つで育ててくれた母親、そして顔すらも知らぬ父親、自分を愛してくれたが故に二人の幸せを壊してしまったのだとネリネは思っていたのである。
だからこそ心では彼のことを求めていても、自分はデュランに愛してもらう資格がないのだと決め付けていた。
もしも彼に愛されてしまえば、両親と同じく大切なものを失ってしまうかもしれない。
大切なものを失う怖さは彼女自身、誰よりも深く理解している。
大切なものを手にして幸せになった後にすべてを失うくらいならば、いっそのこと相手を想い悩む日々だけのほうがよっぽど楽だと思うようにもなっていた。
けれどもデュランの優しさに触れれば触れるほど、また優しくされればされるほど、彼を想う気持ちはより一層大きくなっていくのを自覚してしまう。
それを一番よく自覚してしまったのが、デュランが処刑されそうになったときのことだった。
あのときばかりは自らの行動を呪い、そして自分が想いを寄せていたからこそ、彼が死ぬのではないかと思い込んでいた。
そして何故、自分は一度たりとも彼に想いを告げなかったのかと後悔もした。
強運だったのか彼は助かったが、妻であるリサはその数日前に彼の双子の子供を生んでいたのだ。
彼女の代わりに子供を抱き抱え、デュランが自分の元へ歩み寄ってくれたとき、何故この子達が自分とデュランの子供ではないのかと一瞬ではあったが虚しくもなっていた。
だからこそ、あのときあのような言葉をデュランに向けて呟いてしまったのかもしれない。
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