第282話 小さな心配り

「ふぅ~っ。ま、ルイスとの交渉事で対等な条件を引き出せただけでも上々といったところか」


 デュランはルイスの仕事部屋である書斎を出ると、溜め息一つ吐いて胸を撫で下ろした。

 彼にしてみても最後の最後、ルイスの口先に乗せられてしまったものの、取引条件としてはこの上なく良かったと言える。


 なんせ既存のレール、そのすべてを自分のところの製品に置き換えることができれば、新たに確立された鋼鉄の製造法の需要を賄うどころか、むしろそれでも足りないくらいの注文が彼の元へ舞い込んでくることになる。

 それはデュランにとっても、また彼の精錬所で働いている労働者達にとっても何より喜ばしいことであり、すべてが好循環になることを示唆しているからだ。


 けれども、ルイスから突きつけられた条件はあまりにも厳しいものだった。

 それほど大規模工事の橋作りではないとはいえ、デュランは一度たりとも橋を作った経験は愚か工事に纏わる事業にすら関わったこともなく、またその知識もなかったのである。


 通常ならば、こんな条件を突きつけられれば誰もが断るというもの。

 それでもデュランはこの案件に自らの命運を懸けるつもりなのだ。


「デュラン様、先程のお話なのですが……本当にお受けになられるのですか?」

「なんだ、お前か……。どうやらその口ぶりだと、廊下の壁でずっと聞き耳を立てていたようだな」


 デュランがルイスの屋敷を出ようと玄関扉のドアノブに手をかけた際、この家の執事であるリアンに手を捕まれてしまう。

 彼はずっと廊下でデュランとルイスの会話を盗み聞きしていたようである。


「鋼鉄の橋など、本当に建造可能なのですか? 私が調べた限りでも鋼鉄が橋を支えることができるほど、建材として使われるなんてことは知らないのですが……」

「お前が疑うのも無理はないだろうな。誰も見たことも聞いたこともない、鋼鉄という素材を使っての橋。しかもその上を重い蒸気機関車が走るというのだから、俺だって本当は信じられないことさ」

「ならば、どうしてそのような提案をお受けにっ!! んぐっ」


 デュランも疑わしいなどと自分が口にした言葉に疑う素振りを見せると、リアンは彼に食って掛かろうとする。だが、それも寸前で敵わなかった。


 何故なら彼の口先にはデュランの人差し指の腹で抑えられ、出鼻を挫かれてしまったのである。

 リアンはそんなことを他人からされるのは初めてのことで、一瞬彼から何をされたのか理解できずに戸惑っている。


「ああ、すまないことをした。唇に怪我をしなかったか?」

「い、いえ……私のほうこそ、失礼いたしました」


 デュランは自分がしていることに気がつくと、彼の唇からそっと指を離す。

 自分でもそんなことをするつもりはなかったのだが、何故かそんな行動を取ってしまった。


 リアンもまた先程の勢いを殺がれてしまい、大人しくなるとすぐさま謝罪の言葉を口にする。

 どうやら彼自身の戸惑う気持ちが、逆に冷静さを取り戻す切っ掛けとなったのかもしれない。


「あっ……お、お拭きします!」

「重ね重ね、お前には悪いことをしたな」


 我に返ったリアンはデュランの指が汚れたと思い、右ポケットに入れてあったハンカチを取り出すと彼の指先を丁寧に拭きはじめた。

 デュランもそんな彼の厚意を特に拒むことなく、されるがまま指を拭かれている。


「ははっ。な、なんだかくすぐったいというか、変な感じだな」

「えぇ、そうですね。何をしているんですかね、私達は? ふふっ」


 先程まで互いの間で交わされた険悪な雰囲気は既になくなっていた。

 その代わり今のやり取りがどことなく主従のような関係性に思えてしまい、二人は可笑しくなって笑いあってしまう。


「よし。これで綺麗になったと思いますが、もし今も不快でしたら、お手を洗いに……」

「いや、そこまでする必要はない。それに元々汚れたとも思っていなかったしな。これで十分だよ」


 リアンがデュランの指からハンカチを離すと、それでも心遣いとばかりに「中で手を洗われるならば……」と、再度屋敷に案内しようとする。

 けれどもデュランはそれを丁重な断りを入れ屋敷を出ようと、ドアノブに手をかけた。


「あの……もし何かお困りごとがあれば、いつでも私に仰ってください。微力ながらお力になりますので……」

「それは俺にとってもありがたいことだがな、リアン。お前はここの執事なんだぞ。そのことを一瞬たりとも忘れないほうが身のためだ。守りたい希望があるならば、なおのことな」

「あっ……はい」

「ふふっ。だが、せっかく普段愛想のないお前に気遣われたのだ。その気持ちだけでも受け取っておくことにしよう。それじゃあな」


 リアンはそう指摘され初めてルイスが居る屋敷内にも関わらず、危険な言葉を口走ってしまったことに気づいた。

 幸いなことに玄関付近にはデュランとリアンの二人しか居らず、誰にも聞かれることはなかった。


 そして今度こそ、邪魔するものが居なくなったデュランはルイスの屋敷を後にするのだった。

 デュランが去った玄関先ではリアンが彼の後姿見えなくなってしまった今でも、その場へと佇んでいる。


「……私はどうしてあの方にあんなことを言ってしまったのだろうか。自分でもよく分からなかった。それでも、あの方のお役に立つことこそが、きっと姉さんの幸せにも繋がると思ったからかもしれない……」


 一人になったリアンは誰に聞かせるでもなく、そう呟くのだった。

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