第265話 前触れなき事故

「だだだ、大丈夫ですわよお兄様っ! こ、こちらのコートはお返しいたしますわねっ!!」

「おっと」

「あっ……ぬ、脱いだままお返しするのでは失礼でしたわよね!」


 ルインはデュランの胸元から離れたかと思うと、羽織っていたコートを脱ぎ払い彼に突っ返してしまう。

 だが、脱いだまま返したのではコートにも彼にも悪いと思ったのか、彼女は再び手にすると丁寧に折り畳み、今度は優しく彼に差し出した。


「はい。できましたわ」

「すぐ着るのだから、何もそのように丁寧に畳まずとも良かったのに」

「いーえ、気持ちの問題ですわ」


 受け取ったデュランは丁寧に畳まれたコートを広げて着る。


「んんっ?」

「な、何かございまして? もしやコートに私の髪が付いてましたの?」


 コートを着込んだ瞬間、彼は何か違和感を感じたような表情を浮かべ、ルインは自分の髪の毛が抜け落ちコートに付着してしまったのではないかと案じる。


「いや……たぶん気のせいだな。なんでもないから心配しなくていいぞ」

「そうですの?」


 不思議そうに小首を傾げるルインを他所に、デュランは冷静さを装った。


(まさかコートからルインの良い香りがするだなんて、口が裂けても言えないよな。これは女性特有の柔らかい香りとでもいうか、まるで花のように優しく甘い、どこかほっと安心する良い香りだ)


 デュランは改めて口にするのも気恥ずかしいと、彼女には告げず黙っていることにした。


 先程彼女が口にしていたのは、このことだったのかもしれない。

 確かに体ごと異性に包まれたような、まるで情事を交わした後と同じ安心感を覚えてしまう。


「そ、そうだルイン。最近この街で何か変わったことはなかったか?」

「変わったことですの?」

「ああ、そうだ。何でもいいんだ!」

「そうですわね……あっ」


 デュランは未だコートから彼女の香りを感じ、恥ずかしさを誤魔化すため、別の話題を振ってみることにした。

 彼女は何かあっただろうかと思い考えている。そして何かを思いついたように、こんな話をした。


「この街というわけではございませんが、郊外で予期せぬ事故が遭ったことはご存知でしたか?」

「それは鉄道の事故ということか?」

「ええ、そうですわ。列車が吊り橋に差し掛かった際、何の前触れもなく橋桁が崩落してしまい、その上を走っていた客車ごと川に落ちてしまったようですわ。乗り合わせていた方々、そのほとんどが犠牲になられたようですが、運良く助かった人もいるという話でしたわ」


 ルインの話では、ツヴェンクルクのこの街と郊外にある小さな町とを繋ぐ線路上で起こった事故という話らしい。

 それも車両内部には客として80人ほどが乗り合わせ、そのほとんどが運悪くも命を落としてしまったとのこと。


 しかもその原因は機関車本体の不具合ではなく、橋が建造されてから随分と経ち古かったために起こった悲劇だったと、伝え聞いた話をルインは教えてくれる。


「お兄様も郊外の街へ行く際には、鉄道は利用しないほうがいいですわよ。もし脱線事故などに遭ったら、それこそ客車内に逃げ場なんてありませんからね。唯一私達にできることと言えば、神様にお祈りをするくらいですわ」


 ルインは忠告のつもりでそのように言ってくれたのかもしれないが、デュランの表情はとても深刻そうな顔付きとなっていた。



 この時代の鉄道車両とは、そのすべてが車両前方内部に設置されたかまで燃料としての石炭を燃やし、その熱で水を沸かして作られる蒸気の力を原動力とする蒸気機関車のことである。

 これまで蒸気機関車における主な用途は貨物を運搬することであったが、近年では貨物の代わりとして人を運ぶこともあったのである。


 それは貨物の運搬業だけでは路線維持や機関車本体の維持管理費、それに莫大なまでの石炭燃料費用を賄うことが困難のための苦肉の策でもあった。

 この戦略が功を奏して、これまで遠くの街まで行ける移動手段が無かったため諦めていた庶民達が列車を使うようになり、誰でも容易に遠くの街まで移動できるようになったのである。


 だがしかし、当時の列車移動は大変な危険が付き纏っていたのだ。


 まず、各鉄道会社は国内に張り巡らせた路線全体の維持管理をすることが困難になっていた。


 路線はただ鉄のレールを敷けさえすれば、未来永劫に渡り使用できるわけではない。

 使用し続けるためには、劣化したレール交換などのメンテナンスが必要となり、その費用が鉄道会社の経営自体を傾けるまで膨れ上がっていたのである。


 このため、ほとんどの鉄道会社では利益を確保できる主要路線だけに経営戦略の重きを置くばかりで、郊外の路線などはロクにメンテナンスを行ってこなかったのである。

 またレールに使われているそのほとんどの金属は鋳鉄であり、その上を重たい蒸気機関車が長年に渡り通れば、耐久性を失われた鋳鉄ではとてもじゃないが耐えることができなかった。


 陸路では、レールとレールを支える枕木まくらぎと呼ばれる細長の支え棒の下に敷かれた、バラストと呼ばれる砕石さいせきなどの小石を騒音防止と緩衝材としているため、鋳鉄製のレールでもある程度の荷重には耐えられるようにもなっている。

 そしてまた陸と陸とを繋ぐ吊り橋のようなところでは、レール下に緩衝材としてのバラストを敷き詰められないため、車両全体の加重がもろにレール本体へとかかってしまう。


 これらが原因でレールそのものが路線から外れてしまい、死傷者が出るほど大規模な脱線事故を度々起こしていた。


 また川と川の上に架けられた鉄橋も、川の流れによる荷重と車両による荷重が重なり合うことで鉄の強度を上回ってしまい、橋そのものが崩落するような事故にも繋がっていた。


 ちなみに19世紀のアメリカでは、実に鉄道橋てつどうきょうの四つに一つが崩落事故を起こしてしまうほど、その事故頻度は多かったのである。

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