第264話 心の温もり

(このままでは私……私は……きっと取り返しのつかないことを仕出かしてしまうかもしれませんわね。それならば、いっそ誰も知らぬ土地へ逃げる?)


 ルインは自分の感情に対する居た堪れなさとともに、一瞬誰も自分のことを知らない土地へ逃げてしまうかと思っていた。

 だがそれも現実的には到底不可能であることを彼女が一番良く知っていたのである。


(いいえ、無理よ。私にはこれといった秀でた才能も財もありませんもの。それこそ道端で野垂れ死んでしまうか、誰かに拾われ女として辱められるしか生きる道は……)


 ルインは現実から逃げる恐怖を思い考え、そして結局自分は何も出来ない無力な人間であることをより自覚するだけであった。

 しかも嫉妬深く妄想も激しい。こんな自分のことを心から愛してくれる男性なんて、どこにもいないとさえ思い込んでしまう。


 そして自分は誰にも愛される喜びを知らぬまま、孤独にも死んでいくだけ。

 それは人として、また女として、死にも勝る恐怖であった。


「どうしたんだルイン? 体が小刻みに震えているが……もしかして寒いのか?」

「……あっ」


 いつの間にか、自分の世界に入り込んでいたルインは、それらの恐怖心から体が震えてしまっていた。

 だが、そんな自分を救ってくれた人物が目の前に居たのである。


 彼だけは自分のことを気遣ってくれ、また体の震えが寒さから来るものだと勘違いして、自ら着ていた薄手のコートを脱いで自分の肩へとかけてくれた。


 ルインは彼が与えてくれる心の温かさと気遣いを噛み締めるため、そして孤独という恐怖から逃れようと彼がかけてくれたコートの裾端を握り締め、体を丸めてしまう。


「ふふっ。季節も変わり目だと寒いからな。女性なら、なおのこと無理もないことだ」


 彼の目から見ても体を丸めている彼女は、本当に寒さに震えているように見えていたのかもしれない。

 そう語りかけてくれる彼の言葉は、何にも増してルインの心を温めてくれた。


(ああ、やっぱりお兄様ですわ。私にはお兄様しかおりませんわね。こんな私のことでさえも、さりげなく気遣ってくれる。ご自分もお寒いでしょうに……それなのに……)


 ルインは、自分にはデュランしかいないことを改めて思い知らされた。


「ルイン?」


 何も口にせず体を丸めたままの彼女を心配してか、デュランが呼びかける。


「んーっ。はぁーっ。お兄様の香りがしますわね」


 ルインはそれに応えずに、自らの冷えた心と体を温め包んでくれている彼のコートに思いを馳せていた。


「ん? に、匂うのか? 一応、そのコートも毎日のように別な物と代えて洗濯していたのだが、かえって悪いことをしてしまったな」

「いーえ。ぜーんぜん、不快な匂いなんかじゃありませんわ。むしろ……」

「むしろ?」


 ルインは一瞬、心に思ったままを口にするか迷ってしまう。

 まさか、好みの香りであるなどとは口にできるはずがない。


 もしそれを口にしてしまえば、彼にどう思われるかと気が気でなかった。

 変なことを口走りそうになった自分を戒め、どうにかこの場を取り繕うとする。


「あっ、いえ……あ、安心できると言いますか、そのお兄様に体全体を包まれてるとでもいいましょうか。わ、私ったら、先程から何を言っているのかしら? お兄様とは知らぬ仲ではないとはいえ、ななな、なんだか気恥ずかしいですわよね。あっ……」

「っと。大丈夫か?」


 ルインは慌てながらにそう言い繕うとするが逆に心と声とが噛み合わず、頬が上気していることを自分でも自覚してしまう。

 そんな顔を見られぬようデュランの視線から逃れようとしたとき、地面に出張っていた小石に躓き、前のめりに倒れてしまう。


 けれども運良くデュランが目の前に居たため、彼の胸へと頭から飛び込む形で抱き留められ事なきを得る。

 さすがにこれはルインであっても予想外の出来事だった。


 本心では確かに彼に抱き締められたいと常日頃から思っていたが、何もこのような場面でなくとも良かったはず。

 逆にそれがかえって恥ずかしさを助長させ、彼女の頬をより上気させていた。


「ルイン、どこも怪我はないか? 石か何かで躓いたようだが、足を挫いたりはしていないか? それに咄嗟の判断で抱き留めたとはいえ、頭にコブとかできていないか?」

「ぅぅっ」


 デュランは彼女の足を怪我をしていないか、また頭から自分の胸へとぶつかり怪我はないかと心配する。

 それでもルインは何も受け答えようとはせずに、ただ彼の胸に顔を埋めているだけであった。


 それがかえってデュランの心配を煽り、それと同時にルインの心を掻き乱させる。

 ルインは、これとった怪我などはしていなかった。けれども今の自分の表情をデュランに見られたくない一心で、彼の胸へと顔を押し付ける形で伏せていたのである。


 ルインはこれまで何度となく自ら彼の胸に飛び込み抱き締められながら頭を撫でられたことも、それこそ数え切れないほど。

 だがしかし、今日ほど恥ずかしいと感じてしまったことは初めてのことだったのだ。


 それは彼が与えてくれる温かさや匂い、そして自分のことをいつでも気遣ってくれる優しさを今まで以上に思い知らされ、改めて自分がデュランのことを心の底から愛していると気づいてしまったのである。

 今の今まで自分の感情にどこか疑問を持っていた彼女であったが、今ならば胸を張って言うことができる。


「彼のことを心から愛している」……と。


 それはこれまで彼に対して抱いていた『好き』という感情を遥かに上回るものであり、決して揺るがない永久とわに普遍的な感情。

 ルインはようやく少女の儚い恋心から成長し、大人の女性がする恋愛というもの得ることが出来たのである。

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