第258話 思わぬ誤算

 これまでと同じ質の鋼鉄が15分で生産できるということは、1時間ならば4倍、1日の労働時間である8時間ならば32倍、更にそれが二週間だとすると、その生産能力はなんと従来の448倍にまで膨れ上がってしまう。


 もちろんこれはあくまでも机上の空論にすぎないが、それでも決して見逃すことは出来ない問題にほからない。


 何故ならそれは、この精錬所における今日に到る需要量を約450倍まで引き上げなければ、現在と同じ雇用は維持できないという意味になるからだ。


 もし同じ人数同じ労働時間で鋼鉄の生産をする場合、売れる見込みがまったく無い鋼鉄の生産により、鉄鉱石やコークス、石炭などの燃料を始めとした莫大な製造費がかかることになってしまう。


 もちろん製造費削減から、これまでよりも労働者達に対する賃金を上乗せすることはできることだろう。

 だがしかし、余りある生産能力の飛躍により、それらだけでは吸収しきれないのである。


 仮に彼らの労働時間を1日8時間から1時間へと短縮したとしても、生産量は従来における56倍ほど。

 つまり今現在、この精錬所で働いてくれている労働者人数の1/56だけの人員で済んでしまうわけなのだ。


(彼らの労働時間を削減するわけにもいかないし、また不必要だからといって大勢を即時解雇処分リストラするわけにもいかない。だからといって、これまでの労働時間の1/10ほどの時間で同じ賃金にするわけにもいかない。もしそんなことをしてしまえば、ウチで働いてくれている製塩所や鉱山、それに他の製鉄所で働く連中の不平不満が爆発して暴動にも繋がりかねない。それだけはなんとしても、阻止しなければならない)


 デュランは自分が持つ精錬所の行く末を暗示、大いに悩みに悩んでいた。


 彼らにも生活があるため、労働時間短縮や解雇処分は彼らだけでなく、その家族まで巻き込んで不幸にしてしまう。

 一家を支える彼らの賃金を下げてしまえば、立ち所に生活はできなくなり、もし解雇してしまえば他に手に職の無い彼らは一家諸共、その日のうちに路頭へと迷ってしまうことだろう。


 かといって労働時間内のほとんどを遊ばせていくわけにもいかず、また労働時間短縮によって、これまでと同じ賃金分を他の労働者達の手前、支払うわけにもいかなかった。


 まさに踏んだり蹴ったりの状況へと、デュラン達は自ら追い込まれてしまっていたのだった。

 もしもこれらの問題を解決できるとすれば、それは鋼鉄に対する需要拡大しか道はなかった。


 だが、果たして一般的な製品に使われている鋳鉄よりも強度があるとはいえ、高価な鋼鉄を使ってくれるところがあるのだろうか?


(鋳鉄を鋼鉄に置き換えるよう促すか? そうすれば多大な需要が見込まれるが、一番のネックはやはり価格コストだろうな。安く大量生産できるとはいえ、ただの鉄よりも値段が断然に高い)


 デュランは一般庶民にも親しみがある鋳鉄……これは一般的にただの『鉄』とも呼ばれるものを、より強度がある鋼鉄へと置き換えることを前提に考えていたのだったが、それでも価格の問題が足を引っ張っていた。


 ただの鉄の数倍の強度があるとはいえ、価格も同じく数倍にも上る。この時代における鋼鉄とは普通ならば、まず利用されることが無い材料であった。


 鉄は釘やボルトネジを始めとしてた小物類、それより大きなものでは乗馬する際の足場に使われる鐙や蹄鉄、他には馬車の車輪軸などなど、ありとあらゆる木材よりも強度を必要とする部分に使われていた。

 だが、庶民における生活の中心では、その強度だけでも十分だったのである。


 その理由として挙げられるのは、値段が高い鋼鉄が使われている製品を作る製鉄所なども皆無であったため、また鋼鉄自体の需要が庶民が生活する上でも存在していなかったからである。


 庶民の身近な鉄と言えば、専ら鍋やフォーク、小さなナイフくらいなもの。

 家々はそのほとんどが木材かレンガを積み上げて作られたものであり、そもそも鋼材や鉄などの需要があまり存在しなかったとも言える。


 もちろん鉄や鋼鉄を建物を支える部位に使えば、今よりも遥かに頑丈になることは知られていたが、それでも費用の観点から見れば、まだまだ時代が早すぎたのかもしれない。


(あと鋼鉄を使うのは、薄く延ばして作られるブリキ缶くらいなもの。まさか鋼鉄があまりすぎているからと、そのすべてをブリキ缶として缶詰に使うわけにもいかないだろうしな。そもそも缶詰とて、庶民がおいそれと気軽に買える安いものではないだろうし、その需要も戦争のような非常事態でもなければ、決して高くはない)


 他にも食料保存に使われるブリキ缶も、薄板状に伸ばした鋼鉄に錫をメッキしたものが使われている。


 缶詰は元々ナポレオンがロシア遠征の際、兵站へいたんにおける食料確保が目的だった。


 海外遠征時に長期保存できる食料があれば、兵の指揮を上げることも可能となり、長期遠征もできるようになる。

 それが顕著に表れたのが1861年にアメリカで起こった南北戦争であった。


 戦争時には食料の確保と言うのが何にも増して重要事項であり、両軍はそれを缶詰という携帯できる形で補ったのだった。


 だが海外で普及しつつある缶詰でさえも、この国の庶民の目から見ればまだまだ高級品の部類であり、物資の乏しい戦時中ならばいざ知らず、普段使いの生活の一部として取り入れるには時代が早すぎたのである。


 デュランは未だ答えが導けないまま、鋼鉄の需要をどうすべきか悩むのであった。

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