第189話 タダの紙切れと噂話

「うっし。これであとはインクが乾くのを待つだけだな。知り合いの印刷所の話だと、二日も置けば完全に乾き切るって話らしいぞ。俺達もそのとおりでいいよな?」

「ああ、そうだな。ならば、それまではこうして天井に吊るして置くことにして、乾くまではなるべく手で触らないほうが無難というやつだな」


 そんなデュランの指示で、アルフは印刷したばかりの株券を部屋上部の隅っこに張り巡らせたロープへと木製の洗濯バサミで挟み込み、インクを乾かすための作業をしていた。

 

 この当時のインクはあまり質が良いものとはいえず、乾き切るその前に指で擦ったりすると、印刷された文字が擦れてしまったり指や服へと付着してしまうことがあったのである。


 そのため十二分にインクを乾かす必要性があり、小さな印刷所ではこうしてロープを張り、乾くまで一日二日ほど干すことが普通であったのだ。もしこのまま株券を重ねようものなら裏側へとインクが写ってしまい、せっかく印刷した印字も文字が擦れて読めなくなる恐れもあったのだ。


「それにしても、本当にこんなのが株券になるんだよな?」

「なんだよ、アルフ。お前、まだ疑っているのか?」


 アルフは未だにタダの紙切れへ文字なの印刷を施しただけで証券所で株券として扱えるのかと、疑わしい顔付きのままデュランにそう聞いてくる。


 デュランはそんなアルフの顔を見ると、少し呆れてしまいそうになってしまう。


「だってよぉ~俺は最初、お前から株券を発行したいだなんて説明受けたときには、株券ってヤツがどんなに物々しいものなのかって想像しちまったんだよ。それが結局、これはタダの紙切れなんだよな? だって俺達が用意した紙にこうして印刷しただけだもんな。ほんとにこんなものが株券として金と引き換えにできるようになるのかよ、デュラン?」

「ふふっ。まさにそのとおりだよアルフ。株券なんてものは、そこらにある紙切れと同じだ。だがな、こんな紙切れでさえも会社から生み出される利益の一部を配当金として受け取れるし、それに会社の経営権は愚か、人を雇うも解雇するのも、それこそ会社自体をすべて自分の思うがまま操ることだってきる魔法の紙でもあるんだ。それにもしもこれが上手くいかなければ、会社の株をすべて売却してしまった俺には破産するしか道は残されていないんだ」


 デュランはこの作戦が失敗したときのことをアルフへと語りながら、自虐的にも口元を緩めていた。


「おいおい、デュラン!? あんまりおっかねぇこと口に出して言うなよなぁ~。俺まで身震いしちまうじゃねぇか」

「はははっ。まぁアルフが怖気づくのも無理はないことさ。お前から見れば冷静そうな風に見えるかもしれないが、俺だって内心ではこれで本当に上手くいくのかと心配しているんだ。ただの見栄を張っているにすぎない」


 そうしみじみと自分の運命が紙一重のところで繋がっているのだと口にするデュランを心配してか、アルフは少し顔を引き攣らせている。


「ま、まぁでも本当にこの株券で大丈夫なんだよな? これでルイスの奴に一泡吹かせることができるんだよな? あとあと法にも触れたりする……ってことはないんだよな? な?」

「ははははっ。もちろん大丈夫に決まってるだろうがアルフ。それにな、新株の発行についてはウチの会社にある定款条項にしっかりと記載されてもいる。既に公証人にも確認済みだ。だから法に触れて捕まるようなことにもならないから、そんな動揺して慌てる必要はないぞ」

「そ、そう……なのか? 公の機関だか公証人ってのに確認してあるんなら、大丈夫だな。やれやれ、ほんっとに一安心したぜぇ~。ふぅ~っ」


 デュランが法に触れるようなことではないと告げると、アルフは安堵するように大きく息を吐き出し胸を撫で下ろしていた。


「なんだよ、本当は捕まるかもしれないって不安だったのか?」

「捕まるか不安かって、そりゃあ当たり前だろうがデュラン。それでなくても俺には家族を養っていかなきゃならねぇんだから心配にもなるってもんだぜ。それにお前だってリサともうすぐ生まれてくる子供がいるじゃねぇか……そのことを考えたら不安にならねぇのかぁ?」

「そうだよな……今の俺には守るべき人間が居る。アルフの言うとおりだったな。すまない、アルフ。配慮に欠けていたのは、むしろ俺のほうだったかもしれない」

「いや、そんな改めて言われることじゃねぇけどよぉ」


 アルフは何気なくそんなことを口にしたのだが、デュランは先程の笑みとは違い、真剣そのものという顔付きで彼に面と向かって謝罪の言葉を口にする。

 さすがにそこまで真剣に返されると思っていなかったアルフは戸惑いながらも、デュランにもそれだけ守るべき大切な家族がいるのだと納得することにした。


「あっ、あーっとと。こ、これから大量に作った株券をルイスの奴に売りつける計画でいいんだよな?」


 アルフは暗くなってしまった雰囲気を吹き飛ばすよう、わざと声を張り上げて今後の計画をデュランへと確認する。


「ああ、そうだ。それにトルニアの株式を上場した今では、このタダの紙切れですら株券として扱われるだけでなく、市場に出回っている価格でも売ることも出来るんだぞ。それこそ単純に見積もったとしても、俺の計算では金貨にして数千枚以上は軽く儲かるはずだ」

「き、金貨数千枚も儲かるっていうのかよ!? こんなただの紙切れなのにぃ~~っ!?」


 さすがのアルフも、デュランのその説明聞くや否や驚きを隠せずに、素の大声を張り上げ驚いてしまう。


 だがそれも庶民の出生であるアルフには無理はなかった。なんせたった1枚の金貨があれば、一年間は家族が食うに困らないほどの価値があるのだ。

 それなのにタダの紙切れが金貨数千枚と交換できるなど言われれば、アルフでなくとも驚きを隠せない。それこそこの金貨を有効に用いることが出来れば、周辺にある貴族の大きな屋敷や複数の会社買収することすら、造作もないほどの大金であったのだから。


(これだけの資金があれば、周辺の鉱山や他の企業を買収することだってできる。そこから更に上手くすれば、ルイスのオッペンハイム商会に食いつくことができるかもしれない。これからが本当のルイスとの勝負になるだろうな)


 デュランは既に次の計画までも練り始めていたのだ。


 何故なら、会社の株券を無制限に新たに発行するという戦略が、この一度きりしか通用しないことを十分に理解していたからである。

 これまで誰も思いつかないようなことだっために今はまだ法の整備が追いつかないだけで、すぐにでも禁止されるとデュランは踏んでいたのだ。


 また今度のことでルイスへ直接にも罠を仕掛けてしまったことにより、彼が裁判所や国へと願い出ることも予想されたのだ。

 あくまでデュランのしたことは合法に基づくものであり、仮にルイスが異議を唱えたとしてもその後、法律や株式の定款条項への記載に禁止事項として付け加えられる程度で済むはずなのである。


 これはいわば『ルールなきルール』に基づく事柄。

 そもそもルールや法律とは、実際に起こるまたは起こり得る出来事を想定して作られるものである。


 それは既に実際に起こった事柄か、あくまでも机上の空論の元で想定・・されるものなのだ。……ともなれば既存勢力の力を殺ぐため、そして何か新たなことを成し遂げるためには、今まで誰も思いつかないような奇抜で想定外のことをするしかなかったのである。


 ライバルを蹴落とし伸し上がるためには、並大抵の努力と平凡な発想ではとてもじゃないが自らの欲を叶えることはできやしない。

 それこそ法やルールを熟知し、その裏を掻くことで相手を出し抜き、生き残ること。これが社会における競争心理というものなのだった。


 それがデュランの場合には、定款にたった一行付け加えることで代表者が株式を自由に発行できるという、誰もが思いつきそうでこれまで誰も思いつかなかった、斬新なアイディアを成し遂げることに成功する。


 だがこれでルイスは今よりも、もっともっとデュランへ敵対心を持つことになるのは間違いない。

 それでもデュランが成り上がるためには、他の誰かを踏み台としなければならなかった。どちらにせよルイスとの関係は冷え切っているどころか、最初から互いを敵と認識しているので、今より関係が悪化することはないともデュランは思っていたのだ。


 しかし、そんなデュランでさえもルイスに対して懸念すべき物事が一つだけあった。

 それは今では彼の妻となってしまったマーガレットのことである。


 彼女は表向きルイスと婚姻を結んだが、裏では婚前契約を結び夫婦間に情を交わさないなど事前に取り決めをしていた。

 だがデュランが株の希薄化を狙った仕掛けがその後、彼女に対してどう影響を及ぼすのかまでは予想することはできなかった。


 いくら彼女の身を案じても、その答えは導き出せない。

 だからこそ、デュランは今の自分に出来ることをしなければならない。


「それじゃあお前の指示どおり、これからドンドン株券を刷りゃいいんだな?」

「頼む。それとだな、アルフにもう一つだけ頼みたいことがあるんだが、平気か?」

「おっ、おうよ。なんだぁ~他にもやることがあんのかよ? この際だから言ってくれていいぞ」

「ふふっ。いつもすまないな。実はその頼みというのは、アルフが出入りしていた酒場でとある噂を流し欲しいんだが……」

「噂? あそこの酒場でか?」


 デュランはアルフに彼がいつも出入りしていた庶民がよく利用するあの酒場にて、情報を流して欲しいと口にした。


「ああそうだ。……出来そうか?」

「そりゃ~まぁ、やれねぇことはねぇけどよぉ。でも、一体どんな噂を流すつもりなんだよデュラン? っつても、あそこには株には縁遠い庶民しか集まらねぇんだぞ」

「そんなことは言われるまでもなく、分かっているさ。まぁいいから聞け」

「お、おう!」

「で、だ。アルフに流して欲しい噂というのは……」


 デュランは誰にも聞かれぬよう、そっとアルフへと小声で耳打ちをする。

 それこそ二重三重にと、張り巡らされたルイスに対する罠の一つであったのだ。

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