第188話 印刷の仕組み

 それから更に数日が経った頃、デュランとアルフは例の印刷所へとやって来ていた。

 元印刷所の中には既に印刷に必要なインクと紙、そして刷版が揃っていた。あとは機械を動かして目的物を印刷するだけのことである。


 印刷の機械と言っても、家ほどの大きさがあるような大掛かりで石炭などを動力源として動く蒸気式のものではなく、人力だけで動かすのことのできる『テフート』とも呼ばれた、手動式の平圧式印刷機へいあつしきいんさつきはテーブル一つの分ほどの小さな印刷機だった。


 フートとは版も圧盤も縦についている平圧式印刷機の言葉を指し、手動で動かすことからテフート(フート)と呼ばれている。そして大規模の印刷所にあるような蒸気式の輪転印刷機りんてんいんさつき(以下:輪転機)とは違って刷る枚数が少ない零細の印刷所では、今もなお人の手により一から印刷をしているところも多かったのだ。


 輪転機とはその名のとおり、歯車と石炭などを燃料に蒸気の力を用いて回し動かす機械を指す言葉で、主に大量印刷を必要とする新聞や広告などの印刷用途に使われていた。


 蒸気式も手動式も動力と印刷方式の仕組みが異なるだけで、紙へ印刷するという一点において大きく異なるものではなかったのだ。


 まず輪転機のような大物にはオフセット印刷とも呼ばれる方式が採用されおり、これは原版と紙とが直接触れることなく印刷できる方式のこと。


 その用途としては主に新聞や広告などの大量印刷物を短時間で印刷するためにロール状の用紙をセットして円筒ロール状に刻まれた文字ドラムとプレスロールとで挟み込み、高速で紙を巻き取りながらインキを転写する印刷方式のことである。生産性は実に1時間当たり数万枚の印刷をすることが可能なのである。


 対してデュランが使おうとしているテフートの場合には、銅や亜鉛で作られた原版を宛がい、人力でプレスを動かすことで紙へと印字を写させる方式である。


 またその機械サイズの小ささを生かした郵便や名刺、また株券を発行するときなどのいわゆる端物はものとも呼ばれる部類の少量枚数分を印刷するのに最適とされている。だが手動式のためにあまり生産性は良く無いのだが、大型の輪転機よりも遥かに設備投資費が低く済むことが利点と言えよう。


「デュラン、インクと版盤に印刷する紙をセットしたぞ。これでいいか?」

「ああ、それで十分だアルフ」

「よし。それなら、さっそく試し刷りをしてみるとするか?」

「そうだな。仕組みは簡単らしいけど、実際に動かしてみるまでは分からないからな。それに原版の文字がちゃんと印刷するかも、ちゃんとこの目で確かめねばいけないしな」


 そして印刷がの準備が整い、デュランとアルフはとりあえず試し刷りをしてみることにした。


 用意した紙は質の良い株式専用にと作られたもので、通常の紙よりもやや厚みがあった。

 また株式会社の間で広く普及している汎用はんようの品ということもあってか、事前に株券としての雛形(定型文)は株券裏面へ印刷までされている。


 後はただ株券の表面となる部分に会社の名前や株数、そして通し番号に署名欄及び日付などを印刷して会社の判子と代表印を押せば株式として完成する。また特別条項として定款を追加する場合には、文言が刻まれた判または実筆で記入すればよい。


 当然のことながら、市販のものを使わずにイチからオリジナルの株券を作ることも可能である。

 だがそのどちらの場合にも正式な株券として扱われるので、無断複製されるなどの心配を除けば、安価な汎用品を用いる会社が多かったのだ。一応の保険的意味合いとして、株券一枚一枚には異なる通し番号が存在する。


 カシャッカシャッ。


 テーブルほどの大きさのテフートには、その真横に付属されている手で回す大きな車輪のようなハンドルが付いており、それを回すことでシャフトボードと連結されている、シャフトが回って版盤はんばんへとセットされている紙が前方へと突き出す仕組みだ。

 それと同時に天板状の楕円インク台上部へとインキローラーが回転しながら持ち上がり、インクをローラーへ付着させてから原版板をセットした圧版へと圧しつけられ印字と紙が一つに重ね合わせられる。


「んっ……と」


 最初にハンドルを奥の方へと向かって回し、数秒間しっかりと圧力をかけてから今度は手前へとまた巻き戻す。

 すると圧版へと突き出された紙が自分の手元へと戻り来る。これで印刷は完了となる。


「どれどれ成果のほどは……っと。おおおおっ、ちゃんと紙に文字が印刷されてるぜ。これが会社の名前なんだよな? な? あっはははっ、やったなデュラン! 素人でもやればできるものなんだな!」

「ははっ。まぁな。と言っても特別な技量を必要とするわけでもなく、紙を置く位置さえズレなければ子供でもこれくらのことはできるだろうな」


 紙に文字が印刷されて大喜びするアルフを尻目に、デュランは然も当たり前と言った態度を取っていた。

 実際、手動式の印刷機械があるのは主に零細の小さな印刷所で、そのほとんどの多くが家族経営である。だからこそ子供でも容易に作業ができるテフートは、中小零細の印刷所にとって無くてはならない大切な存在でもあった。


 だがそれとは別に、実はデュランも内心ではアルフ以上に喜んでいたのだ。


 なんせこんな簡単なことで、今まで目にしたこともないほどの大金を生み出すことのできる、まさに黄金の紙と言っても差し当たりがないのである。

 当然のことながらインクや紙それに原版代などの経費はかかるのだが、それでも1枚あたりの印刷コストは銅貨1枚もしなかったのだった。


 デュランがアルフに命じて事前に用意してもらっていた株券の元用紙は数万枚以上であり、そしてこの株券には表に『100』と刻印されていた。

 それはこの株券1枚でトルニアカンパニー株式100枚に相当することを意味しており、これがもし今現在の上場価格である1株あたり銅貨50枚に化けるとしたら、その利益は莫大なものとなる。


 製作費が銅貨1枚もしないで作ることができる、ただの紙切れ・・・・・・が、なんと銅貨5000枚もの価値へと化けることになる。もしすべての紙へと印刷すれば、金貨に換算して最低でも5000枚以上(銅貨では5千万枚)の価値を持つことになるのであった。


 それも悪名高い相手から合法的にも金を巻き上がられるのだから、デュランも喜ばないはずがなかった。けれども、目の前ではしゃいでいるアルフの手前もあってか、取り乱さずに冷静さを装っていただけだった。

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