第187話 真に強かなる者
―ツヴェンクルクの街、某所にて
ルイスとリアンがトルニア株の買収について話を進めているのと時を同じくして、デュランとアルフは仕事終わりに街外れの廃墟の建物の一角に来ていた。
「仕事終わりだというのにすまないなアルフ。それにしてもよくこんな伝手があったものだな、感心するよ」
「なぁ~に、ちゃんと給料も貰えるんだから、むしろ俺のほうが感謝したいくらいだぜ! だがな、デュラン……急にこんなものを欲しがるだなんて、一体どうしちまったんだよ? まさか製塩事業の次は新聞でも刷ろうって言うつもりじゃないだろうな?」
「ははっ。まさか俺にそんな学識は持ち合わせていないさ。それにお前のような情報通でもないしな」
「そ、そうか? なんだか分からねぇが、この機械を使うんだろ?」
そこは街の西側に位置する
かつては小さな印刷所などが立ち並び、それなりの賑わいを見せていた場所だったが、今ではそれも東側に位置する広大な土地に大手の印刷所が出来てからというもの、すっかり廃れてしまっていたのだ。
そしてデュラン達はその昔、零細の印刷所として使われた建物の一角へ、とある目的のためにやって来ていたのである。
「ごほっごほっ。長年放置されていたってのは本当だな。こんなにも埃が……なんだかレストランの時と状況がまったく同じに見えるな。コレ、本当に使えるんだよなアルフ?」
「ははっ。まぁデュランが何をするのか俺にゃ~理解できねぇけど、掃除くらいなら任せろってんだ!」
デュランは室内に置かれ長い間使われることなく放置されていた機械の上を指でなぞると、積もっている埃が指にこびりついてしまう。
なんだかそれが懐かしくもあり、廃墟となっていたレストランでの出来事を思い出してしまう。
アルフはデュランの問いかけに答えなかったが、それでも掃除だけはしてくれるらしい。
(まぁ印刷機自体の構造は単純なものだから、ちゃんと掃除をすればまだまだ使えるよな? あと必要なのは上質なインクと紙、それと肝心の元となる原版くらいなものか。印刷の機械はこのまま流用するとしても最低限、それらを調達しないといけないな……)
デュランは既に目の前にある印刷機が使えること前提で物事を考えていた。
だがそれはアルフが口にしたように、彼は何も新聞や広告の類を印刷したいわけではない。
そこには誰一人として考えも想定もしていなかった、それこそルイスでさえも考え及ばないアイディアが隠されていたのだ。
そしてそれこそがトルニアの株式にある定款に深く関わりを持つと同時に、上場した本当の狙いでもあったのである。
ルイスはトルニアカンパニーを合法的に買収するそのために、一方デュランはルイスが買収工作を仕掛けてくると知りつつも、わざとそれに対して見て見ぬ振りを貫き通し他の出資者から譲り受けた株式、そのすべてを売却して大金を手にした。
人は物事に対して、疑り深くなればなるほど冷静な判断というものを失うものであり、逆にそれは相手の思考を読みやすくなるとも言える。
ルイスがデュランの言動に対して疑念を持ちつつも、リアンの懸念を聞かずして強引に買収を進めたのにもその辺りが関係してくる。
「自分ならば相手よりも優れている。また何かしらの思惑があろうとも、容易に突破できるはずなんだ……」と。そんな自意識過剰な思考こそが油断へと繋がり、過ちとなり得るわけである。
それからデュランはアルフに上質な紙とインク、それに印刷の元となるべき原版を調達してくれるよう頼んでいた。
当のアルフは何に使うのか訳も分からずに、デュランから言われたとおり昔馴染みの伝手を使い、知り合いの印刷所から上質なインクと紙を融通しもらい、印刷するための元である原版まで作ってもらうことも頼み込んだ。
原版とは
また本来、印刷を施すには事前に何枚もの原版を用意すべきなのだろうが、デュランにはたった一つだけあればそれで良かったのだ。
それは何も小難しいこともなく、どこの株式会社でも極々ありふれたものである。
通常の株式会社においての印刷物とは、それらの仕事を生業としている専門の印刷業者へと発注するのが一般的なのだが、小さな会社ともなれば
そしてデュランが考えている思惑の場合には、費用節約の観点とその他の目的のため、自分とアルフの二人だけで印刷しようといたのである。
当然ながら廃業したとはいえ印刷所を借りるのにも、またインクや紙、それと肝心要である原版を作成してもらうのにも費用は必要となる。だがしかし、それによって得られる利益を考えればそれらの経費は微々たるものであると言えよう。
それでは何故デュランは印刷所を通さずして、自分達で不慣れな印刷をしようとしているのか?
その理由は至極単純で他者に情報が漏れることを恐れての、彼なりの慎重さの表れでもあったのだ。
仮にこの秘密が漏れ出てしまえば、トルニアカンパニーの株式をすべて売却してしまった彼は文字通り破産することになってしまう。それほどの覚悟を持っているため、心から信用しているアルフにはもちろんのことリサやネリネなどにも、この計画について何も口にはしていなかった。
もし知っている者がいるとすれば、それは事前に定款書最後の一文についての確認を取っていた公証人であるルークスだけである。ここに到りデュランはルイスとルークスが実は裏で繋がっているなどと考えていたが、本心ではまったくの真逆であると考えていた。
彼らも自分と同じく何かしらの思惑や信念があり、今はただルイスに付き従っているだけにすぎず、機会を窺がい伏せっているだけのこと。
敵の敵は味方となり得るのだ。
彼らこそ最後には自分の味方になるのだと、この時点でデュランは確信していた。
それでも、だからといって決して油断してはならない。
人の心は川の流れと同じく一箇所に長く留まり続けてしまうと澱みが生じ、全体を汚す原因とも成り得る。時にそれは金銭への執着心であり、または想いを寄せる異性でもある。そしてまた権力への執着心でもあるわけだ。
ルークスは見た目ただの老人であったが、その力は国や裁判所に次いで三番目に位置するほどである。
彼の仕事柄として特段目立たず地味な存在ではあるのだが、逆にそれが不気味な存在とも言える。
なんせ彼はどの貴族の資産がいくらである、また企業の資産や株式についてなど、ありとあらゆる情報に精通しているのだ。
もしそれらを自らの欲を満たすために使えば、絶対的な有利と成り得てしまうことになる。
もし人がそれらの利を得ようとすればするほど、他の人間が本来得られるべきその利を失うことになる。
それは何も目に見えるものだけの利とは限らない。
目に見えるものよりも、目に見えない何かのほうが余計に恐怖を感じるものなのだ。
そしてそれは自分の身に災いとして降りかかってこそ、初めて自覚するものである。
真に強かなる者とは誰にもその存在を気づかれること無く、内々に事を成し遂げるような彼のことを指す言葉なのかもしれない。
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