第175話 流れ行く歳月

 ―それから半年後、ツヴェンクルクにある小さなレストランにて


「リサさん、あまり無理はしないでくださいね」

「大丈夫大丈夫♪ もうネリネもお兄さんと同じで心配性なんだからなぁ」

「ですが、リサさんだけの体じゃないんですから……。それに最近では、以前のように動くことさえお辛そうですよ」

「うにゃ? そうかな……そう見える?」

「はい」


 ネリネはリサが厨房の中で働いている姿を見て、そんな苦言を呈してしまう。


 リサの体は半年前とは違っていた。

 それは彼女が何らかの病気になってしまっていたわけではなく、むしろその逆であった。


「予定日も近いのでしたよね?」

「うーん、とね。確か再来月だったかな」

「でしたら、なおのことお体を大事にしないと私がデュラン様に怒られてしまいます」

「ふふっ」

「もうっ! 笑い事ではないんですよ、リサさん!」


 リサのお腹はその容姿に似つかわしくなく、やや膨らみを持ち合わせていた。

 それは彼女が子供を妊娠している証でもあり、再来月には出産を予定していたのだ。


 半年前のあの日、医者からの診断を受けてすぐさまデュランはリサに改めて結婚の申し出をした。

 それを待ち望んでいた彼女も受け入れ、ささやかながらも街の教会で式を挙げ二人は、めでたくも正式な夫婦となっていたのだ。


 リサの目の調子についても、アレ以降はまるで嘘のように症状が悪化することも無くなっており、それでも念のためにと彼女は毎月末になると街医者であるマルクの元を訪れて検診するようになっていたのだ。

 だがそれと時を同じくして、リサの体調に変化が現れ始めていた。


 最初デュランはリサが新たな別の病にでも侵されてしまったのかと心配していたのだが、それも彼女の妊娠したということを知ると、とても喜んでいた。

 

 また製塩所の事業も順調で出資者達を集め法人化までしており、当時は未開の地であった『シュヴァルツヴァルト(黒い森)』にある旧ツヴェルスタ家所有の森林地帯、通称『ブレアーズ・ウィッチ(魔女達の森)』と呼ばれていた森を切り開き、そこに小さいながらも『リトル・ウィッチ(小さな製塩所)』と名づけた製塩所を構えていたのだ。


 既に岩塩の採掘も始まり、製塩事業の操業を開始して塩の製造を賄っている。


 そしてまた当初デュランが予定していたとおりに精製され、出来上がったばかりの塩は出資達への配当金代わりとして分配されている。

 もちろんデュランの『リトル・ウィッチ』へ出資してくれた者達とは、野外露店のあのマダムや店主、それに下流階級の市場プリカティー・マーケットへ商品を卸している卸業者達や問屋などであった。


 彼らは少ない金を出資金として出し合い、デュランが立ち上げた『リトル・ウィッチ・カンパニー』の出資者達となっていたのだ。

 当然受け取るべく配当金は現物支給の塩であるため、彼らは独自の販路を通じて通常価格で塩を市場へと流通させていた。


 塩の価格が数倍にまで釣り上がり、同じ価格帯で売ることにすれば莫大な利益となっていたことだろうが、デュランはそれを株式の定款書にある条項に記載することで、不本意且つ過度な価格競争を禁止してしまっていた。


 これもデュランが市場の真理とはいえ、過度な価格競争ではルイス率いるオッペンハイム商会と同じになってしまうと危惧し、またその負担についても庶民が生活するうえで家計の圧迫に繋がるとの思いとともに、出資者への権力抑止目的でもあったわけだ。


 それでも彼らが文句を口にすることは無かった。

 何故なら塩を流通させることでも、得られる利益としては十分だったのだ。

 

 そこには岩塩ならではのカラクリが隠されており、仮に通常価格で市場へ流通させていたとしても得られる利益は出資金の倍近くと文句の付けようがなかったからである。


 岩塩は海水からの製塩とは違って最初から塩分濃度が高いため、海水のように何度も何度も煮詰めて濃度を濃くして鹹水かんすい(濃くした塩分濃度の水)を作る必要性がなかったのだ。


 一般的に海水の塩分濃度は3%程度と言われおり、成人男性一人分の海水の量から精製して取れる塩の量は僅か2キログラム程度である。

 対して岩塩の場合には、その主成分のほとんどが塩分またはカリウムなどのため、仮に海水製塩時と同じ重さであっても精製して取れる量が30キログラム程度と15倍以上違っていたのだ。


 また岩塩を水に溶かす一番の理由は、表面上の土や砂などの汚れを取る目的と食用として使いやすいようできるだけ粒を細かくするためだけなので、煎熬せんごう(煮詰め濃度を濃くする工程)をあまり行う必要が無かった。


 これらのため岩塩の製塩では工程を大幅に省くことができ、また精製に必要な不可欠である水も海から運ぶ手間のない地下水であるため、運搬もする必要もなかった。

 そして加熱するために使われる燃料の木材なども製塩工程の少なさから、それまでの製塩所の半分か、それ未満で製塩できてしまうために人手があまり必要ではなかったのだ。


 よって物作りにおける一番のネックである人件費の大幅な削減と、新たな事業立ち上げによる雇用、尚且つ安価の価格で手にすることができる『リトル・ウィッチ』の塩は庶民の間で爆発的に広がりを見せていた。


 だが得をする人間もいれば、反対に損をする人間が必要となる。

 得をした人間はデュランの関係者達であり、損をする人間とはルイス達のことであった。


 ルイスは既存にある製塩所をその手中へと収め、市場に出回る塩の量を抑制、価格を数倍にまで釣り上げた張本人である。

 本来なら相当な額を塩で儲けるはずであったが、デュランが安価な塩を合法的に流通させてしまったため、その計画は泡と帰した。


 そしてルイス率いるオッペンハイム商会が取れる手段は一つ。それはデュランと同じく塩を通常の価格で売ることだけだった。

 だがそれでも彼が大幅に損をすることはなかった。


 その理由は製塩の大本である製塩所を抑え、流通量の抑制だけに留まっていたからである。

 これがもし市場に出回っていた塩の買占めまでしていたならば、莫大な損を出していたに違いない。


 ルイスの信条はノーリスク・ハイリターン。

 彼は常に何をするにも事前に保険をかけており、塩の売買についても本来得られるべき利益は減ったものの、損失を出すまでには到っていなかったのだ。


 狡猾で疑り深い彼だからこそ、この程度で済んだだろうが、もし冷静さを失った強欲な人物であったならば、忽ち破産していたに違いなかった。


 そしてそれはデュランと縁の深い、とある人物の助けがあったからこそ回避できたことができたのだった。


 その人物とは……。


「ふむ。やはりキミの見立て通り、デュランの奴はこちらの計画をご破算にするようなことを仕掛けてきたな。だが、それも事前にキミが調べてくれたおかげで特段の損失を生むこともなく、無事に済むことができた。今この場で改めて礼の言葉を言わせてくれないか?」

「お礼だなんて、そんな……。それよりもだから言ったでしょ。デュランのやりそうなことなら、婚約者であるこの私に取ってみれば、手にするように理解できる……とね。これで貴方も少しは私のことを信用したかしらね、ルイス?」

「ははっ。さすがはマーガレットだ……それでこそ私の妻だ!」


 その手助けした相手とは、元デュランの婚約者であったマーガレット本人だった。

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