第167話 幸せは涙の味

「お、俺ですか?」

「ああ、そうだとも。何をそんなに驚いているのかね? この場合、正確にはキミの行いが原因とも言うべきかな」


 デュランは戸惑いを隠せなかったが、マルクはそのまま話を続ける。


「本来なら立ち入ったことを聞くようで憚れることなんだが……ちなみにキミは彼女との将来を約束しているのかね? 見たところ、キミ達二人の指には指輪らしきものがはめられてはいない。私はそれが彼女の心に負担をかけていると見ている」

「あっ……」


 そこで目の前のマルクが何を言いたいのか、デュランは察してしまう。


 リサの心の負担……それはデュランとの先行きを心配してのことが原因だったのだ。

 二人は互いに心も体も通わせてはいたが、対外的に見ればただの恋仲にすぎない。詰まるところ、男女が行き着くその先とは心の拠り所でもある『結婚』ということになる。


「リサ……」


 デュランがリサの名前を口にすると、彼女は返事の代わりとしてぎゅっと手を握り締めてきた。

 彼にはそれがそうであるとの証のように思え、彼女に向けてこんな言葉を口にする。


「本来なら、リサとそうなることはもう少し生活の基盤が落ち着いてからにしたかったんだ。鉱山の経営や製塩所も……いや、そんなことは言い訳にすぎないよな。俺は恐れていたのかもしれない」

「恐れていた?」

「……ああ」


「一体何を?」という表情を浮かべているリサとは対照的に、デュランはどこか悲痛とも思える明らかに苦しそうな表情を浮かべていた。

 そして彼女に……いや、自分自身に語りかけるが如く、こう言葉を続ける。


「リサも知っての通り、戦争から命からがら帰って来た俺は文字通りすべてを失ってしまったんだ。それまで何の苦労もせずに幸せを感じていたし、婚約者までいた」

「…………」


 デュランは過去にあった出来事を振り返るように一つ一つ噛み締めながら、語っていく。

 リサはそれをただ黙って耳を傾け、真剣に彼の顔を見つめていた。


「けれども、俺が生きて帰ってきたせいで周りの人間すべてを不幸へと追いやり……いや、そもそも家柄の名誉のために戦争の地へと赴いたこと自体が間違いだったと今頃になって気づいてしまったんだ。それでも結局は何も取り戻すことができなかった。だがな、そんなときにリサと出会ったんだ。お前も覚えているだろ?」

「うん」


 デュランの問いかけにリサは頷くことで応える。


「それからも苦労続きで、レストランに客が来なかったり、鉱山では事故が遭ったりもした。だからこそ俺は傍に居てくれて支えてくれるお前まで、自分のせいで不幸にしてしまうんじゃないかって恐れていたんだ」

「でもそれはお兄さんのせいじゃ……」

「待ってくれ」

「あっ……う、うん」


 リサは前のめりになって何かを言いたげにデュランへと詰め寄ろうとしたのだったが、彼の静かな一言でまだ話の続きがあるのだと椅子へ腰掛けた。


「だがそれも間違いだと気づいた。俺はリサと幸せになることを恐れていたのかもしれない。また自分が幸せになってしまったら、大切なものを失ってしまうことに怯えてしまい、現実から目を背けて逃げていただけにすぎない。実は白状するとリサの目が見えないと知ったときも、心のどこかで俺のせいじゃないかって最初から思ってはいたんだ。リサ……改めて言わせてくれ。俺のせいで辛い目にばかり遭わせてしまって、すまない」

「お兄さん……」


 デュランは頭を下げてリサへと謝罪の言葉を口にする。

 彼女は彼の名前を口にしたのだが、それ以上言葉を続けられなかった。


 彼の境遇を思えば、それは当然の思いだったのかもしれない。

 家も財産も失い、父親と婚約者まで失ってしまったのだ。それでも彼は正気を失わずに頑張り続けてきた。レストランにしろ鉱山にしろ、最近上手くいき始めてきたとはいえ、苦労は絶えることはなかったし、これから先も様々な問題が待ち受けているかもしれない。


 自分のことにしても、彼と恋仲になれたことは嬉しかった。


 だがそれと同時に心の奥底で不安も抱いてはいたのだ。もしかしたら、ずっとこのままの関係ではないだろうか? そして目が見えなくなってしまったことで、彼が自分の元を去ってしまうのではないか……と、リサの心はそんな負の感情に苛まれ蝕まれていった。


 それでも今の彼の話を聞いて、自分だけではなかったのだと気づいてしまう。


 そして自分と同じ境遇である彼を想えば想うほどに離れられなくなり、ずっと傍に居て欲しいと日々願っていた。


 それこそが、そんな彼女のその想いこそが一時的とはいえ、彼女の目から光を失う結果に繋がってしまったのかもしれない。

 そしてリサは決意する。自分が彼の負担になってはいけないのだと。だがそれは辛い決断を強いられることを意味してもいた。


「お兄さん……ボク、ボク……」

「リサ、間違っても俺の元から離れるだなんて言うなよ。そんなことをしたら、俺はお前のこと……本気で嫌いになってしまうからな」

「っ!?」


 デュランのその一言にリサは驚きを隠せなかった。

 この瞬間、自分の心が彼に見透かされてしまったのではないかと思い、思わず彼女は顔を上げ彼の顔を直視してしまう。


 すると、それを待っていたかのようにデュランはこんな言葉を口にする。


「リサ……俺と結婚してくれないか?」

「えっ? えっ? 結婚……お兄さんと?」

「ああ、そうだ。……嫌か?」

「あっ、あっ、あっははっ。へ、変だな……その言葉をお兄さんが言ってくれるのをずっと、ずーっと待っていたのになんでボクの目からは涙が溢れてきちゃうのかな……ぐすっ」


 それはリサが心から待ち望んでいた彼からのプロポーズの言葉だった。


 何の飾り気もない一言ではあったが、彼女はそれを日々何よりも待ち望んでいた言葉であった。

 そしてそれが叶った瞬間、彼女の瞳から一筋の光が頬を伝わり、冷たい床を濡らしていく。


「んっ」

「んんっ……ちゅ♪ ありがとうね……お兄さん。ボク、幸せだよ♪」


 デュランはそんな彼女を見兼ねてか、涙で濡れた頬を優しく手で包み込むと口付けをした。

 そっと彼の唇から離れると、リサはニコヤカな笑顔とともに涙を流すのだった。


 これまで彼とは何度と愛し合い口付けをしてきたが、今感じた口付けはどこかほろ苦くも温かさを感じるものであった。

 それは二人が初めて幸せを得たことで感じられる嬉し涙がもたらした、幸せの味だったのかもしれない。

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