第148話 心の安らぎと女の幸せ

(ど、どなたか、この苦しみから私のことを助けてくださらないの? そう……そうよね……誰も私のような女を助けてくれるわけが……あっ)


 誰かに左手を掴まれたかと思ったその刹那、ルインは前の方へと強引にも体ごと引き寄せられてしまう。

 トン……と、何かに頭が優しくぶつかり、驚きから彼女は思わず閉じていた目を開け、恐る恐るその正体を見上げてみる。


「おっと、大丈夫か、お姫様? 怪我はなかったかな?」

「……えっ? おにい……さ…ま?」


 ルインは自分の身に何が起こってしまったのか理解できず、何度も瞬きをしながら目の前の人物の顔を見つめてしまう。


 不思議と先程までまったく呼吸ができず苦しかったはずの喉への圧迫感が急激に無くなり、いつの間にか意識せずに呼吸ができるようになっていた。そしてさっきは声を出そうにも、出せなかったはずなのに今ではちゃんと声として出るようにもなっている。


「いきなり椅子から立ち上がったかと思ったら、ボーッとして前へと倒れそうになったから驚いたぞ。今よろめいてしまったのは、貧血が原因の立ち眩みか何かか? はぁーっ。まったく、突然勢い良く立ち上がるからそうなるんだぞ。もし俺がこの場に居なかったら、前のめりに倒れちまってテーブルの角にでも頭をぶつけ、怪我でもしていたかもしれない。本当に気をつけろよな、ルイン」

「え、えぇ……はい。これからは……注意します……わ…ね?」


 どこか上の空というか、ルインは心ここに在らずと言った受け答えのまま、目の前に居るデュランの瞳から一時も目を離せなくなっていた。

 先程まで感じていたものすべてが夢か幻でも見ていたかのように思えてしまい、今では彼女を縛り付けるものはなくなっていたのだ。


(お兄様が私のことを助けてくれたんですの? きっとあのままでしたら、誰にも助けを呼ぶ声が届かずに私は闇へと飲み込まれていましたわね。お兄様は私の命の恩人……そう……きっとそうなんですわ)


 彼女にとってそれは暗闇が支配する中から一筋の光が差し込み、自分のことを救い出してくれた存在……そう思わずに入られなかった。


「ルイン?」

「…………あっ、す、すみません。私ったら、お兄様にご迷惑をおかけしてしまって……その、急に倒れる形でぶつかっていしまい、痛くはありませんでしたか?」


 デュランに名前を呼ばれたルインは、そこでようやく自分が置かれた状況を理解した。

 

 傍目から見れば貧血か何かの症状に見えたかもしれないが、実際には極度の緊張感から来る精神的圧迫、それが原因で彼女は唐突な呼吸困難に陥ってしまったのだ。

 それも今心配されている目の前の相手から自分はどう思われているのか、そんなことを考えただけでルインの胸は再び得も言えぬ不安に押し潰されようとしていた。


「い、今ここから退きますので……あっ」


 そしてその苦しみと彼の瞳から一時でも逃れるため、ルインはクルリッと背を向けデュランの胸元から離れようとする。けれどもデュランはそんな彼女を逃がさないと言わんばかりに右手を伸ばしてルインの左手を取ると、素早く自分の指と絡ませてしまった。


「きゃっ」


 前へ歩こうとしていたのに突如としてデュランから左手を取られてしまったルインは、強引にも彼の胸元へと引き寄せてられてしまった。


 トン……と。先程同じく、ルインの頭は彼の胸板に優しくもぶつかってしまう。

 そして何を思ったのか、デュランは口元付近に迫っていたルインの耳元でこう甘く囁いた。


「別に迷惑だなんて思っちゃいないさ。むしろルインのような美少女とこうしてお近づきになれるのだから、俺のほうが役得だろうしな。んっ」

「~~~っ(照)」


 デュランは何を思ったのか、彼女の左耳付近にかかっていた髪に軽い口付けをする。それは触れる程度であったが、その行為自体まるで恋人がするそれと同じに思え、ルインは動揺を隠せない。


 デュランはルインの緊張を解すため、そんなことを口にして彼女の髪へと口付けをしたのかもしれないが、それに反して彼女の心は余計に掻き乱されてしまった。


(なっ、なっ、なんですの~っ!? いったい今のはなんだったんですの!? お兄様から私の髪へと、そっと口付けをされてしまいましたわ。それにそれに、そのような恋人同士が愛し終えてから語り合う事後のような甘い囁き声をされてしまったら、わたくし、わたくしの心は……)


 先程までの緊張感から生じる息詰まりとは違い、今は胸の高鳴りがより激しく鳴り響き、自分でもうるさいほどと感じるほどの大きな音を立てている。


(静まって! お願いだから、私の胸の内から鳴り響いてしまっているトキメキのをお兄様に聞かれてしまうその前に、静まってちょうだい)


 ルインは自分の胸から奏でられている鼓動の音が彼へ聞こえてしまうのではないかと心配してしまう。

 だがそれとは別に左耳をデュランの胸へと押し当てていたルインは逆に彼の体温と鼓動が聞こえてしまい、もはやそんな話どころではなかった。


(お兄様の鼓動も、私と同じで早く高鳴っていて全然収まる気配がないですわ。お兄様だって普段は平然とした態度をされてましたけど、本当は緊張していますの? それとも私のせい? 私とこうして恋人同士のように抱き合っているせいで、このように激しくも熱い鼓動を打ち鳴らしているんですの?)


 ルインはそれを確かめようと、ふと彼の顔を窺う形で下から見上げてみることにした。


「んっ? ふふっ」

「~~~っっ(照)」


 彼と目と目とが合い、そして優しくも微笑まれてしまった。


(ズルイですわズルイですわ……今のタイミングでそのように微笑むだなんて、ほんっっっとうにズルイですわよお兄様っ! そんなことされてしまったら、私……私は……)


「その余裕のある彼の笑みが意味することとは? それと同時に安心感を抱いてしまうこの気持ちはいったい何なのか……」ルインはそのことに気を取られるのと同じく、想い人である彼の顔が近いことによる気恥ずかしさからか、その瞳から逃れる形でデュランの胸に顔を埋めてしまう。


「ルインの髪は相変わらず綺麗に輝いているな。それに手触りもまた……んっ。まるでシルクのような滑らかさとともに、このいている手を優しくもくすぐるなんとも言えない心地良さ。こうして髪を撫でているだけでも、とても気持ちがいいものだな」


 デュランはそれをルインからの甘えたい意思表示だと勘違いしてしまったのか、彼女のことを抱き締めたまま開いている左手で後ろ髪に触れ優しく撫で上げる。

 特に言葉を発せず彼からされるがままのルインの心はこのとき、戸惑う気持ちから安らぎや嬉しさに満ち溢れ、やがて女としての幸せを感じるようになっていた。


(お兄様に髪を優しく撫でられていると、とても気持ちが良くて、ついついこのままずっとずーーっと、甘えていたくなりますわね。きっとこれが女の幸せの一つなのかもしれませんわね。同姓に髪を触られているのとはどこか違う、安心感と優しさ、それに心地よさを感じてしまいますわ)


 ルインはまるで自分がデュランの恋人であるかのように扱われているものだと、思い込むようになっていた。


 それがたとえデュランの本心とは違ったとしても、今この瞬間に彼のことを独占しているのは自分だけ。

 ルインはそれを感じられるだけでも満足で、今はとても心が満たされていた。


 恋人同士の愛し方は何も睦事むつみごとの話だけではない。

 体だけでなく心までも満たしてこそ、恋人から得られる本当の幸せというものではないだろうか?


(できればこのままずっと、お兄様と一緒に……)


 ルインはデュランが与えてくれるそんな幸せをずっと自分だけで独り占めにしたいと心内で思いながらも、今この時だけ味わえる幸せだと噛み締めるため、彼の胸へと顔を埋め甘えるのだった。

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