第134話 婚前契約と二度目の裏切り

「一つ。貴方と婚姻は結ぶけれども、情だけは交わさないわよ。もちろん夜寝るのも別々の部屋でお願いね」

「……つまり表面上だけの夫婦関係ということだな? それなら私としても願ったり適ったりだ」

「二つ。私が貴方にしている借金もこれで清算ね。だから私以外の相手、特にデュランに対しても請求はしないこと……この二つが私からの条件よ。どう? それでも承諾してくれるかしら?」

「くくくっ。まぁ夫婦なのだから、負債も共有の財産とするのが私の認識だ。婚約前のものとはいえ、キミが妻になるのだから負債なんてものは元から無かったものにしようじゃないか。そしてデュラン君についても……渋々ながら承諾するとしよう!」


 ルイスはそのマーガレットの条件を無条件のまま飲むことに同意した。


 ケインが作った多額の債務が消失し、尚且つデュランを追い込む企てもご破算となってしまうが、それでも彼女を手元に置いたほうがより大きな利益になると踏んだ。


「もしものための保険として、今私が述べた条件をちゃんとした書面にして最後に貴方の署名もいただけるかしら?」

「いわゆる婚前契約というわけか……わかった」


 マーガレットはルイスとの間に交わされた約束が今はまだあくまでも口約束のため、このままでは彼が約束を守るとは到底信じられなかった。だからちゃんとした書面に記すことで、より強固なモノへと昇格させ約束を守るよう仕向けた。


 ルイスはそんな彼女の意図を知りつつもそれには異を唱えず、他人に貸付を行う際に使っている用紙を流用して、その条件諸々を記して最後に署名すると彼女へと手渡した。


 彼が書いた紙は普通の紙とは違い、複写式の特殊なもので本文が書かれた物をマーガレットが持ち、その下に複写された控えの書類をルイスが持つことになる。


 これはどちらか一方だけが書類を持っていると、後から内容を改竄され悪用されるのを防ぐ目的のため作られた物である。金貸しは相手に信用を持ってもらうため、そうした用紙を流用することが多かった。そして最後に互いの書類の端を合わせ、二枚一組である証の割り印を押して完成となった。


 本来なら互いの約束事を書面に記す場合には、それを破った際に生じる損失補填についての詳細も書かなければいけないのだが、マーガレットはそれに触れなかったためルイスは敢えて書かなかった。だがそれでも、効力は十分すぎるほどである。


 何故なら、そこに書かれた内容はあまりにも非常識で事情を知らない他人から見れば、ただの仮面夫婦の取り決めを記した書類にすぎない。そんなものが一度世に流出してしまえば、マーガレットはもちろんルイスですらも敬遠され、他の異性と二度と結婚できなくなってしまう。


 それがある意味で互いに約束を履行させる保険的意味合いになる。

 またこうした夫婦間の取り決めは貴族の間では何も珍しくないことではなく、特にそれは政略結婚をする男女がよく交わす事柄であり、互いが互いの不干渉を貫くことや子供を持たないこと、そして財産の相続について記すことが多かった。


 ルイスもマーガレットもまた戸籍の表面上夫婦として認められることになるのだが、実質的に言えば他人と言っても相違ない。

 それは二人とも合意の上での約束事であり、決して他人に漏らすことなく必ず守られなければならない。


「ほら、できたぞ。既に私の名は署名してある。あとは書面に書かれた文面を確認してから、キミの名を書いてくれれば……」

「んっ……」

「……いいのか?」

「結構よっ!」


 ルイスは出来上がったばかりの書類をマーガレットへ差し出してその内容を確認するよう口にしたのだが、彼女は引っ手繰る形で奪い取ると精査しないまま、一番下に書かれた署名欄に名前を記した。


 尤も、ルイスが書いているのを彼女自身も見守っていたので改めて確認する必要はなかったのかもしれない。だがしかし、それでも僅かな時間を置くことで冷静になる時間を作るべきだったのは言うまでもなかった。


 もしこのとき、後日改めて署名して手渡すことを約束していたならば、この後起こりうる悲劇は引き起こらなかったかもしれない。

 けれども運命の歯車とは皮肉なものであり、まるで自ら意思を持っているかのような振る舞いをすることがある。


 それがデュランとマーガレットに課せられた、二人の運命という試練なのかもしれない。


「これでキミは私の妻になるのだな?」

「ええ、そうよ。貴方の妻になってあげるわ。感謝なさい!」

「…………」

(本当にどこまでも強気な女だな。こんなのにデュランもケインも惚れていたというのか? そもそもこんな性格をしている女の何が良いのだ? 私にはただの傲慢な女にしか見えないのだが……。まぁいい、利用するだけ利用すれば後は捨てるだけだしな。むしろ強気のほうが捨てる甲斐があるというものか)


 ルイスが再度意思を確認すると、マーガレットは間を置かず承諾してみせた。


 彼は彼女の傲慢な態度と物言いに少し思うところがあったが、どちらにせよ表面上利用するだけなので、正直どうでもいいと思うことにした。


(デュランごめんなさいね。本当はこんなことしたくはなかったのだけど、それでも貴方を守るためにはこうするしかなかったのよ。また、私は貴方のことを裏切ってしまうわよね。でも許してね……これが貴方のことを守る道なのよ)


 マーガレットはルイスに向けた言葉とは裏腹に、心の中でデュランに謝罪の言葉を投げかける。


 そしてこれでもう彼と道が交わることがないのだと、諦めることにした。


 それが彼のことを未だに想い焦がれていた彼女にできる精一杯の誠意であり、唯一想い人を守ることができる方法であるのだと、自分自身に言い聞かることで無理無理に納得する。

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