第112話 抱擁

「あっ……ごめん。ボク、勝手なことばかり言ってたよね。お兄さんだって本当は……」

「ありがとうな、リサ」

「うにゃ。も、もう~くすぐったいよぉ~お兄さん♪」


 デュランはそっとリサのことを抱き締めて後ろ手で髪を撫でた。


 本来リサのほうが年上なはずなのにそれでも彼は何故か彼女のことを抱き締め、撫でたいという衝動に駆られてしまったのだ。

 それでも彼女は嫌がる素振りすら見せず、むしろ嬉しそうにしている。


「……お兄さん? もしかして……怖いの?」

「あっ、いやこれは……」


 リサがデュランの背中へと手を回して抱き締めてくれたのだが、デュランの体は小刻みに震えていたのだ。

 デュランは誤魔化そうとするが、抱き締め合っている最中、それは無理というもの。


「んっ……いいこいいこ♪」

「リサ」

「ボクの背じゃ、ちょ~っと届かないけどね。にゃはははっ」


 そう言うとリサは少し爪先立ちとなってデュランの後頭部を撫でながら、笑みを浮かべていた。

 身長差があるためしっかりと撫でることはできなかったが、それでもリサのその優しい気持ちがデュランにとっては嬉しかった。


「それにさ……」

「んっ?」

「それに……本当にお金足りなくなっちゃったらさ、このお店……売ってもいいからね」

「……えっ?」


 リサの口から予想もできない言葉が飛び出し、デュランは驚きを隠せない。


「いやリサ。あのな、店を売るってお前……」


 デュランはこの1年という歳月の間、1日とて店を休むことなくリサがレストランを盛り立てようと必死になって頑張ってきたことを知っていた。

 だからこそ余計に彼女からそんな言葉が出たこと自体、到底信じられるものではなかった。


「ず、ずっと店を流行らせようと頑張ってきただろっ! それに最近は少しずつ客も増えるようになってきたし、それなのにそんなこと……っ」

「それなのに……でも、だよ」


 リサはそっとデュランの頭を抱き締め、こんなことを語りだした。


「お兄さんはさ、ボクがなんで一生懸命このレストランを流行らせようとしていたのか……分かる?」

「それは食べていくため……じゃないのか? あとは金を稼ぐため……とか?」


 リサがどうしてそんな質問を自分へと投げかけてきたのか、皆目検討もつかないデュランは思いつく限りの考えを口にする。


「にゃっははっ。ま、まぁどっちもそうなんだけれどもね。でもね……本当は違うんだ」

「本当は……違う? 他にも目的があったっていうのか?」

「……うん」


 デュランにはリサが何を言いたいのか、分からない。


 それでもどこか言いづらそうにしている彼女の姿を見ていると、正直不安な気持ちにさせられてしまう。


 それは「また信じてきた人に裏切られてしまうのではないか……」との思いから生じるデュランの心の弱さでもあった。

 だが次に口にする彼女の言葉で痛いほど彼女の優しさを知ることになる。


「ボクがこのお店を流行らせようと頑張ってきた本当の理由は、お兄さんが本当にお金に困った時に少しでもこの店が高く売れるようにって、それで頑張ってきたんだよ」

「お、俺の……ため…に? 俺が困ったときに高く売るため、ここまで頑張ってきたっていうのか?」

「……うん、そうだよ」


 それはデュランがまったく考えもつかないことだった。


 リサは最初からデュランがこれから先の遠くない未来において資金面で困ることを予想していて、それで店を売ることになる際に少しでも高値で売れるようにと店を流行らせていたのだと言う。


 事実、客が全然いない流行っていない店なんかよりも既に固定客が付いており、流行っている店の方が土地や建物の資産価値に付属して、いくらか高く資産価値が評価されることがある。


 リサはそれを見越してここまで必死に店を流行らせてきた……そういうわけだったのだ。


「あっ、勘違いしないでね。ボクだって何も率先してこのお店を売りたいってわけじゃないんだよ。この数ヵ月の間、ずーっと一生懸命働いてきたからこのお店に愛着だってもあるし、それにね……」

「リサ、お前……泣いて…いるのか?」

「へっ? あっ……あ、あれ? あれあれ? へ、変だなぁ……なんでボク、涙なんか出ちゃってるんだろ。な、泣くつもりなんてなかったんだよ……ご、ごめんねお兄さん。冷たかったでしょ」


 デュランは抱き締められているはずの左頬に冷たい何かが落ちてくるを感じ、ふと上を見上げてみればなんとリサが笑顔のまま涙を流していたのだ。

 彼女自身も自分が泣いていることに気が付かなかったのか、デュランから指摘されると慌てて目元へ手を当て、そこでようやく自分が泣いているのだと知ることになる。


「ふふっ」


 それでも彼女がデュランに向けてくれるのは笑顔だけだった。

 だがそれでも愛着のある店を売ると自ら口にしてしまい心は泣いているのか、抱き締められているはずのデュランには僅かに彼女の体が小刻みに振ているのが伝わってきていた。


 リサだって愛着のある店を売りたいはずがない、それでもデュランのために……と、そんなことを口にしてくれた。


 デュランはそんな彼女の優しい心に触れ、少しでも彼女のことを疑いそうになってしまった自分の卑しい心に胸を締め付けられてしまう。

 彼女が涙を流し、それでも自分に笑顔を向けてくれている。それは強がりというよりかは、彼女の優しさそのもの。


 そんな彼女の優しさが今のデュランには何物にも代えがたいほど辛かった。

 自分のことをこんなにも想ってくれている女性に、そんなことをさせてしまっている……自分の不甲斐無さと愚かさを自覚するには十分だった。


 いっそのこと怒られたり罵られるほうがよっぽど楽だと感じてしまえるほど、彼女の心もその行為も今の自分には辛いものであり、それが最も大切な『何か』だと教えられた気がする。


(どんなことがあってもリサだけは……これから先の未来で、どんな苦難が待ち受け立ちはだかろうとも、そして何を犠牲にするにしても彼女だけは幸せにしなければいけない。たとえそれが自分の命と引き換えだったとしても……どんな手段を取ることになっても絶対に……彼女の笑顔だけは……)


 デュランは彼女の笑顔を眺めながら、そう心に決めるのだった。

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