桜色の湖で

赤木フランカ(旧・赤木律夫)

桜色の湖で

 バスから降りると、途端に悪寒を覚えた。空に雲は少なく、夕焼けがよく見える。天気予報では、今日は今年一番の温かさになると言われていた。寒いのは自分の心だ。金森イチカはそう分析した。

 その日のホームルームで、クラス全員が自己紹介をした。イチカの通う高校で始業式が行われたのは二週間前だが、もろもろの行事や授業のガイダンスなどがあって、クラス全体で顔を合わせるのは今日が初めてだった。担任の文月先生から始まり、名簿順に一人ずつ、好きなアーティストや部活のことを話していった。

あいにくイチカに話せることはなかった。聴いているのは一昔前の楽曲ばかりだし、部活にも入っていない。そんなとき、後ろの席に座っていた熊野リカさんが「イチカちゃんは自衛隊について話したら?」と言ってきた。

 熊野さんは一年生の時も同じクラスだった。彼女とは特別仲が良かった訳ではないが、孤立しがちなイチカを気にかけてくれていた。彼女は去年イチカが自己紹介で「戦闘機が好き」と言ったことを覚えていたのだ。しかし、イチカが好きなのは「戦闘機」であって「自衛隊」ではない。なにより、去年はそれを話したために、女子だけではなく男子からも好奇の目で見られることになったのだ。

 自分の番が回ってきたとき、イチカはできるだけ当たり障りのないことだけを話そうとした。好きな科目などを話している間、熊野さんがしきりに「自衛隊!飛行機、飛行機!」とそそのかした。クラスの何人かが彼女の様子に気付き、イチカにいやらしい視線を投げかけた。

 もしかしたら、熊野さんはイチカの理解者が現れることを期待していたのかもしれない。自分の趣味を曝け出せば、それを共有できる人が見付かると。イチカもそれを期待してしまった。そして「フランカーというロシアの戦闘機が好き」と言った。その瞬間、クラスが静まり返った。彼彼女らにはイチカが未知の言語を話しているように思えたはずだ。日本でフランカーなんて言葉を知っているのはラグビーの競技者くらいだろう。ロシアと言う国についても、フィギュアスケートの強豪くらいにしか認識していない人が多数派だ。

 熊野さんのおせっかいをここまで恨めしく思ったことはなかった。ホームルームの後、逃げるように教室を後にしたイチカは、帰りのバスの中で何度も熊野さんを殴る妄想をした。殴るたびに、去年熊野さんが優しくしてくれたことを思い出した。体育祭の時はダンスの個人レッスンをしてくれたし、スキー教室のときには同じグループに入れるよう取り計らってくれた。自分はあの美少女を憎んでいるのか、それとも彼女に感謝しているのか。愛憎入り混じった想いというものを、イチカは身を以て実感した。

 イチカは不知火潟へ行こうと考えた。そ名前は不気味な炎の伝説に由来する。バス停から自宅までの道の途中で、別の角を曲がる。住宅街を抜けた先にその湖は位置していた。湖面に向かって思いつく限りの悪口雑言を吐きだせば、気持ちの整理がつくかもしれない。

 湖の周囲には桜が植えてある。見ごろはとっくに過ぎているが、花びらが遊歩道を文字通り桜色に染めていた。桜色の絨毯の上を歩きながら、イチカは湖面を見た。遊歩道と同じく、水面も花びらで埋められている。アイガモの親子が並んで泳ぎ、引き波が水面に桜吹雪を起こした。住宅街の真ん中とは思えないほど、湖は静かだ。

 バードウォッチング用の桟橋にたどり着いたとき、イチカはその上に人影を認めた。茶色いブレザーにチェックのスカート。湖の反対側にある私立高校の制服だ。その学校は昔からお嬢様学校と呼ばれていた。男女共学になった今でも、聖人に由来する片仮名の名前と、デザイン性の高い制服が女子生徒たちに人気だった。イチカは偏差値に見合った進学校に入学したが、中学の同級生の何人かがその高校に行ったと聞いたことがある。

 バキッと足元で大きな音がする。落ちていた木の枝を踏んで折ってしまったのだ。その音に気付いて、茶色いブレザーの人物が振り返る。

「あ……」

 目と目が合う。琥珀を埋め込んだような、キレイな瞳だった。小柄で色白の少女。その肩には一枚の花びらが乗っていた。

「こ、こんにちは……」

 少女は細い声であいさつをしてから、コクリと会釈した。イチカはその仕草にドキリとしてしまう。初対面の人に緊張しているのとは違う、奇妙な胸の高鳴り。森の中で小鹿を見つけたような感覚だ。イチカは混乱していたが「どうも」とあいさつを返すことができた。

しばしの沈黙の後、少女は「失礼します」と言い残し、桟橋を去ろうとした。

「あ……ちょっと待って!」

 あわてて彼女を引き留める。イチカは自分がなぜそうしたのか解らなかった。ただなんとなく彼女をこのまま行かせてはいけないと思えた。引き留められた少女は、きょとんとこちらを見つめている。

「べ、別に邪魔するつもりはないから、ここに居ても良いんだよ……わ、私はヌートリアを見に来ただけだし……」

 ヌートリアに興味はないが、少女に警戒されないために、湖に来たもっともらしい理由を言ったつもりだった。

「ヌートリアって何ですか?」

 聞き覚えのない単語に、少女は違和感を覚えたようだった。

「え、えっと、ヌートリアっていうのはでっかいネズミみたいな動物のことだよ……本当は日本にはいないんだけど、どんどん増えちゃってて……」

 質問に答えつつ、少女の顔を直視しないよう目を下に向ける。すると、彼女が何かを握っているのに気が付いた。銀色に光る円形の物体。裏側には何か絵柄が描かれているようだった。もっとよく観察しようとしたが、少女はそれをポケットに入れてしまった。

 ガサガサと音を立てて、少女の後ろで葦が揺れる。少女が音のした方を見ると、大きく茶色いハムスターのような動物が葦の中から顔を出していた。

「何ですか、この子……?」

 少女はその動物を指さしてイチカに尋ねた。

「噂をすれば……その子がヌートリアだよ。身体が小さいから、今年生まれた赤ちゃんかな?」

 イチカが辺りを見回すと、葦原の向こうにお母さんと思われるヌートリアがいて、こちらの様子を窺っていた。親の心配をよそに、赤ちゃんヌートリアはイチカたちの方に近づいてきた。イチカはポケットから鉛筆を取り出すと、それを赤ちゃんに差し出した。赤ちゃんは鉛筆を両手で受け取ると、ポリポリとかじりだした。

「かわいい~」

 少女の顔がほころぶ。彼女がヌートリアに目を奪われている間に、イチカは改めてその横顔を見た。まだあどけなさを残すが、均整の取れた顔立ちをしている。自分が男なら、たちまちなびいてしまうかもしれない。

 不意に少女がこちらを向いた。再び琥珀色の瞳がイチカを見つめ、その魔力で身体が動かなくなる。少女は頬を赤らめ、ためらいがちに言葉を紡ぐ。

「あの……私、王寺ツバサっていいます。『王の寺』って書くんですけど……良かったら、お名前をうかがってもいいですか?」

 少女が自己紹介をしていることを理解するのに、イチカの脳は少々時間を要した。最初にその言葉を聴いたイチカは、彼女が詩を吟じていると思った。ツバサという彼女の名前は、イチカにそう思わせる軽やかな響きを持っていた。

「わ、私は、金森イチカ……てゆうの。川代(せんだい)高校の二年なんだけど……」

イチカは腕時計を付け直しながら、自分の名前と学校、学年を述べた。その間もツバサの視線がイチカに向けられており、こそばゆい感じがした。それを紛らわすために、イチカはツバサに尋ねる。

「ツバサちゃん・・・だったっけ?その制服って、アグネスのやつだよね?」

「はい、この春に聖アグネス学園に入学しました……」

 ツバサは少し照れくさそうで、もじもじと制服の胸についている校章を示した。

「やっぱりアグネスの制服かわいいね!」

「あ、ありがとうございます……」

 やっと普通の女子高生らしい会話ができた気がした。そう思ったイチカの胸に一つの疑問が浮かぶ。「普通」というのはどういうことだ? イチカが自問していると、再びツバサ口を開いた。

「イチカさんって動物詳しいですね。そういう本とかよく読むんですか?」

 彼女の問いにイチカはぎくりとした。「普通」の女子高生がヌートリアという単語を知っているはずはない。ヌートリアもマスクラットもドブネズミも、「普通」の人には全部ネズミなのだ。

「別に詳しい訳じゃないよ。全部ネットで調べたことだし。まぁ、そんなことを調べるくらい、ヒマってことだよ……」

 ため息と発話の中間のような声で答えた。かゆい訳ではないのに、どういうわけか頭をかいてしまう。

「どうしてヒマなんですか……?」

 ツバサがたたみかけるように問う。イチカが彼女のブレザーのポケットを見ると、そこは不自然に丸く膨らんでいた。

「学校で『友達』って呼べる人は少ないからね。芸能人とか覚えられないし、最近の音楽も興味ないし……。だから、みんなと話が合わなくて、休み時間もヒマなんだ。それで、ニュースとか授業で出てきた単語を調べたりしてたら、ヌートリアなんて言葉を覚えちゃったんだよ……」

 自嘲気味に鼻で笑う。足元を見ると、赤ちゃんヌートリアはかじりかけの鉛筆を残して消えていた。他の動物の気配がしないでもないが、沈みかけの太陽と冷たい風が物寂しさを感じさせた。イチカは再び熊野さんのことを思い出した。熊野さんはアイドルが好きで、ダンスが上手で、いつも明るい。それが「普通」だとイチカは思った。「普通」ではない自分に対して語りかけるように続ける。

「私って、変な女の子だよね……普通じゃないよね……初対面なのにこんな下らない話しちゃってゴメンね……」

 言い終えたイチカは、ツバサの顔を見る。立ち尽くす彼女は、ポケットの上からさっきの物体を握りしめていた。

「そう言えば、ツバサちゃんはどうしてこんなちっぽけな湖に来たの?」

 最初に彼女の後姿を見た時から抱えていた疑問を投げかけてみる。ツバサは身を硬くし、いっそう強くポケットを握りしめた。神の前で罪を告白するように彼女は答える。

「私も、普通じゃありませんよ……」

 イチカはその答えに驚かなかった。ツバサはゆっくりとポケットからあの物体を取り出した。それを見たイチカは「やっぱり」と納得した。

 アニメのキャラクターのイラストが描かれた缶バッジ。そのアニメは少年漫画を原作としており、バスケにおいて弱小の高校に入学した主人公が、仲間たちとともに成長しながら日本一を目指すという内容だった。受験勉強が忙しくなってイチカは途中で視聴を止めてしまったが、その作品が女性ファンから人気を得ているという話は聞いていた。

「こんなのをペンケースとかカバンにつけてるんですよ?私も普通の女の子じゃありませんよ……。高校生になったから、卒業しなきゃいけないんです……」

 イチカにはその声が「ごめんなさい」と言っているように聞こえた。彼女も自分と同じく、趣味を否定されたのだ。「普通」を押し付ける無理解な者たちによって。

「それで、この湖に放り込みにきたんだね?」

 イチカの問いにツバサは無言で頷く。そのまま下を向き、バッジを見つめる。それを握る彼女の手は震えていた。本当は捨てたくなんかないはずだ。彼女にとって、それはかけがえのない宝物なのだから。イチカはそう信じて言葉を続ける。

「宝物を棄てなきゃって思うほど、ひどいこと言われたの?」

 ツバサは答えない。イチカは答えが聴けなくても良いと思った。黙り込むツバサの様子から、彼女が負った傷の深さは想像できた。

「学校で……クラスの男子が……」

「やっぱり言わなくていいよ。ゴメンね、嫌な事思い出させちゃって……」

 イチカは止めたが、ツバサが首を横に振る。もう好きなだけ吐き出させてやろうと思って、イチカは彼女の言葉に黙って耳を傾けた。 

「クラスの男子が、私のカバンを指さして『腐ってる』とか『キモイ』って言っていたんです……あの人たちは、私が聞こえないとでも思ってたんですかね……」

ツバサが咽から鉛の塊を押し出すように話す。鉛はやがて融解し、熱と粘度を持ったものに変わっていった。

「でも、そんなの慣れてたんです。小学校のころからそんなことはありましたし。SNSで仲良くしてる人に愚痴って、スッキリしようと思ったんです……そしたら……」

 ツバサはそこで言葉を切った。彼女の身体がわなわなと震えているのをイチカは見た。悲しみと怒りが彼女をそうさせているのだ。

「私たちが話している内容を、知らない誰かがスクリーンショットで保存して、掲示板に曝したんです……そこからはもう……」

 食いしばった歯の間から声が漏れる。喉の奥から、絞り出されるような声が。彼女の目から透明な真珠のようなものが零れ落ちる。声はやがて嗚咽に代わり、ツバサは肩を震わせながらさらに鉛を吐き出す。

「どうして……どうしてみんな私の好きなアニメを叩くんですか……?そんなに私たちが目障りでなんすか……?」

 ツバサはヒステリックに問いかける。その問は世界の全てに敵意と共に向けられているようだとイチカは感じた。今の彼女は人間に捨てられ、誰も信じなくなった野良猫のようだ。自分の身を守るために、牙を剥いて唸り声をあげている。イチカはそう思った。

 彼女がそうなるのも無理はない。インターネットの中は現実世界以上に不条理と偏見と無知に満ちている。およそ前時代的な価値観がそこでは生き永らえ、罪のないユーザーをなぶり殺そうとしている。そのような惨状を、イチカは今まで嫌と言うほど目にしてきた。

「解るよ、前にそうゆうスレ見たことあるから……アイツら『人の趣味を否定するな』とか『イケメン目当てにアニメを見るな』とか言うくせに、平気で同じことしちゃってるし、美少女目当てにアニメ見ちゃってる……マジでダサいよね、あーゆー連中……」

 そう言いながらイチカはツバサに歩み寄り、バッジを握る彼女の手を包み込んだ。涙にぬれた琥珀色の瞳を真っ直ぐ見つめ、優しく語りかける。もうその瞳を見ても鼓動が早まることは無かった。

「あんな奴らの為に、ツバサちゃんが宝物を棄てることはないよ……いや、棄てないで……!」

 手に力を込める。温もりと共に言葉にできない想いを伝えようとする。世界の悪意を凝縮したような言葉によって、生きる希望が奪われることは耐えられない。イチカは顔を紅潮させながら言葉をつなぐ。

「だって悔しくない?自分じゃない誰かから生き方を決められるのって?ましてや顔も知らないネットの中の人だよ?私はそんなことで趣味を……生きる希望を棄てたくないし、ツバサちゃんにもそうして欲しくない!」

「イチカさん……」

 いつの間にか、イチカの目じりからも真珠が零れる。それをぬぐうこともせず、イチカは思いの丈をぶつける。

「私もね、自分の趣味を周りからあーだこーだ言われることあるよ。『女の子なのに』とか……趣味を否定される痛みはよくわかる。だから、私はあなたの趣味を……『好き』っていう気持ちを否定しない!」

 熊野さんには負けない、私は私。イチカは言外に付け足した。

 ふと、ごーという音が遠くから近づいてくることに気が付いた。車の音とは違う。イチカが上を見ると、遥か高空で二機の戦闘機が編隊を組んで飛行していた。

「何ですか、あの飛行機……自衛隊?」

 ツバサが二機を指さして尋ねる。全体的に角ばり、前進角が統一されたデザイン。イチカはそれが自衛隊の所属機ではないことを知っていた。

「いや、あれは自衛隊の機体じゃないよ。アメリカ軍が運用しているF-22っていう戦闘機。この湖の上空には訓練空域からの帰投ルートがあるみたいで、時々見かけるんだよね。みんなあの機体が好きっていうけど、私のタイプじゃないな……私はどっちかっていうと、ロシアのフランカーみたいな塩顔イケメンが……」

 そこまで話して、イチカは自分がツバサには理解不能な単語を並べていることに気づいた。ツバサの顔に「?」が浮かんでいる。イチカは先ほどとは違う理由で顔を赤くした。

「ご、ゴメンね!つ、つまりあれはアメリカ軍の基地にいるスゴイ飛行機で……」

「イチカさん、ヒマだから飛行機のこと調べてたわけじゃないみたいですね?」

「え……?」

 イチカが意味不明の言葉を口にしたことをツバサは咎めなかった。それどころか、彼女は柔らかな微笑みを浮かべている。

「どうしてそう思うの?」

 イチカは恐る恐る尋ねる。

「だって、飛行機のことを話すイチカさんの顔、とっても嬉しそうだったから……『好き』な事じゃなきゃ、そんな顔はできませんよ……」

 その言葉を聴いてイチカの胸が熱くなる。ツバサもまた誰かの『好き』を否定せず、認めてくれたのだ。

「そうだね・……ありがとう、ツバサちゃん……」

「それはこっちの台詞です。今日はありがとうございました!」

 ツバサは深々とお辞儀をした。

 街灯に明かりがともる。もう帰らなきゃ。ぼんやりと考えていたイチカに、ツバサが言葉をかける。

「イチカさん……」

「……?」

 イチカはツバサの方を見た。少しためらいがちにツバサが言う。

「私たちまた、ここで合いませんか?私、イチカさんともっとお話がしたいです。『友だち』になりたいんです……」

 ツバサが言う「友だち」という言葉は「友達」とは違う意味合いを持っているように感じられた。行動を束縛する鎖ではなく、柔らかで温かい不可視の繋がりを持つ人物。自分にはそんな存在は今までいなかったように思う。イチカに彼女の申し出を拒む理由は無かった。

「もちろん、全然OKだよ……」

 イチカはツバサに今日一番の笑顔を見せた。そして、優しくツバサの手を取った。

「『友だち』になろう、ツバサちゃん!」

 二人の上の空には、飛行機雲が長く尾を引いていた。


―終―

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桜色の湖で 赤木フランカ(旧・赤木律夫) @writerakagi

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