第五話 「人は死んだら」

「私、思うんだけど……」


 普段とは違う沈んだ声で、朝倉菜摘は言った。

「……人は死んだら、どうなるのかな」

 普段とは違う口調で語られる、普段とは違う重い疑問。普段とは違って、彼女の黒目がちの目は伏せられており、別な理由から光っているように見える。

 僕と菜摘が座っている葬儀会場の片隅の席は照明が落とされていて、正面にある祭壇だけがやけに明るい。その壇上には何度か顔を見たことがある菜摘の祖父の、目を細めて静かに笑っている写真が置かれていた。

 そういえば、五年ほど前までは毎年三回ぐらい見かけたような気がするが、最近はあまり会ったことがなかった。どうやらその間にいろいろあったようだが、細かい話は知らない。

 僕に分かるのは、菜摘がひどく落ち込んでいることだけである。

 そこで僕は、前に彼女の母親が「菜摘はおじいちゃん子だから」と言っていたことを思い出した。

 僕は小さく息を吐いてから、話を始めた。

「ふう。僕にも実際どうなるのかは分からない。だから仏教の話になるけど、いいかな」

「うん。それで構わない」

「仏教だと『十王経』というお経の中に、死後の世界の様子が出てくる。それによると死んだ直後の人は、自分が河原に立っていることに気づくんだ」

「賽の河原だね」

「そう。それで、目の前には三途の川があって、その川の向こう側に極楽が見える。そこで、死んだ人は三途の川を渡らなければいけないのだけれど、それには自分で泳いで渡るか、渡し船に乗せてもらうしかない。平安時代には、橋を通るという方法があったそうだけど、今はないみたいだね。また、渡し船はお金がないと乗れないから、持っていない場合には泳ぐしかない」

「六文銭……だよね。円換算がどうなっているのか分からないけど」

 そこで菜摘が小さく笑ったので、僕は少しだけ気分が軽くなった。そのまま話を続ける。

「川を渡った先には脱衣婆という老女がいるので、そこで服を脱がされる。次に、閻魔大王のところに行って審判を受けなければならない。閻魔大王は手元にある閻魔帳を見て、生前の行いを見ながら裁きを下す。罪を問われた人は地獄に行き、罪のない人だけが極楽に行く」

「いろいろ手順があるんだね」

「まあね。ただ、この考え方には宗派によって違いがある。例えば浄土真宗では、現世を『穢土』と呼び、死後に行く最初の世界を『浄土』と呼ぶ。穢土で煩悩を断ち切ることは出来ないんだけど、浄土で修行をすれば誰でも煩悩を断ち切ることができて、仏になることができる。仏になって、やっと『極楽浄土』に行くことができる」

「全員が極楽浄土にいけるの」

「修行をすればね。それから、残された家族の供養も大切なんだ。一般に『法事』と呼ばれているものには、お坊さんにお経をあげてもらう『法要』と、法要とその後の食事を含めた『法事』がある。初七日、四十九日、一周忌というのは法要で、残された家族が仏になった故人を偲び、冥福を祈るためのものだ。冥福とは”冥途での幸福”のことで、故人があの世でよい報いを受けてもらうために、この世に残された者が供養をするんだ。また、法要では故人が残した人と人の縁を再確認し、故人に感謝するという意味もある。仏教では、死後七週間までは故人があの世とこの世の間をさまよっていると言われていて、最初の七日目から四十九日目までの法要は、忌日法要きびほうようと呼ばれている。一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌といった年単位の法要は年忌法要ねんきほうようだ。最初の四十九日間は『中陰ちゅういん』と呼ばれ、死後七日目から七日ごとに七回、閻魔大王をはじめとする十王が、生前の行いに対して裁きを行い、四十九日目に来世の行き先が決まる。忌日法要は残された家族が『故人が極楽浄土に行けるように、故人に善を送る儀式だと言われている」

「ふうん」

「この忌日法要については、宗教的な意味もあるけれど、実際のところ心理的に意味がある。まず通夜と告別式は、残された家族に別な使命を与えることで、とりあえずは身体や頭を動かすように仕向ける。でないと、人は悲しみに打ちひしがれてしまうからね。それに、遺族だけを放置しないように周囲の人が気を配るための期間――ケアとしての期間でもある」

「そうなんだ。ところで、水沼君――」

「なんだい」


「――もしかして全部調べておいてくれたの? 有り難う」


 弱々しい笑みを浮かべてそう礼を言った菜摘に、僕は何も言えなかった。

 確かに、僕はその答えを徹夜で調べておいた。なんだか聞かれそうな気がしたからである。


 菜摘は顔を祭壇の写真に向けると、独り言のように話し始めた。


「おじいちゃんは。昔からとても真面目な人でね。孫の私に会いに来る時は、その前にかならず床屋さんに行って、当日はクリーニング済みの一番お気に入りの服を着るんだって、おばあちゃんから聞いたことがあるんだ。曲がったことが大嫌いで、テレビのニュースを見ながら、静かに怒っていることがよくあってね。目を見るとそのことが子供の私にもすぐにわかったので、その時は何も言わないで待っていた。それで、おじいちゃんはそのニュースが終わると、すぐに気持ちを切り替えて、私の方を優しい笑顔で見つめてくれるの。だから、私はおじいちゃんのことがとっても好きだった。おばあちゃんと仲が良くて、自分も年を取ったらあんな感じになれるといいな、って自然に思えるぐらいに仲が良くてさ……」

 菜摘はそこで、視線を写真から外してうつむいた。

「……でも、七年前ぐらいから物忘れが酷くなって、五年前ぐらいから記憶が消えてゆくことが多くなった。私の名前を呼び間違えたりするんだけど、私もいちいち訂正するのが可哀想だったから話を合わせていたんだけど、それでも内心とても寂しかった。痴呆症がさらに進んで、おばあちゃんのことも『よく見かける誰か』ぐらいにしか認識できなくなって、それでもおばあちゃんは笑顔を絶やさないようにしながら接していて、余計に見ていて辛かった。それで、お父さんが老人ホームに入れることをおばあちゃんに勧めたんだけど。おばあちゃん、最後の最後までそれを嫌がっていてさ。すごく温和な人なんだけど、涙を流して嫌がってさ。それでもお父さんの『二人で一緒に倒れちゃいけないよ。時に誰かに助けてもらうことだって、介護では大事なことなんだよ』という言葉で、しぶしぶ了承したんだよね」

 見ると彼女の両手は小さく震えていた。

「老人ホームで見るおじいちゃんは、いつもパジャマ姿で、髪がぼさぼさだった。おばあちゃんにご飯を食べさせてもらっていた。お昼ご飯の時に、おばあちゃんは毎日必ず行ってたんだ。でも、誰だかまったく分からなくて、食べさせようとするおばあちゃんを叱ったりすることもあった。すごく不機嫌な顔をしていることもあってね……」

 そして、彼女は僕の方を見る。

「……正直に言うと、私はそんなおじいちゃんの姿を記憶に残すのが、とっても嫌だった。私、酷いよね」

「そんなことない」

 僕は即座に、短く、断定的に言った。菜摘は小さく笑う。

「有り難う」

 それから菜摘はしばらく黙り込んでから、思い出したように呟いた。

「私、神様とか天国とかどうでもいいって思っていたんだけど、今はこんな風に思うんだ。おじいちゃんのような真面目で優しい人の最期が、あんな感じでいいわけがない、って。だから絶対に、死んだ後の世界があって、おじいちゃんはそこで元のおじいちゃんに戻って、おばあちゃんが来るのを待っているって。いつまでも覚えていて、ずっと待っているんだって。そうじゃないと、私、神様のことが大嫌いになる。こんなの身勝手だと分かっているけど、絶対にそうなる」

 そして、彼女は僕の目を見た。


「身勝手ついでなのだけれど、私、そろそろ泣いてもいいのかな」


「いいんだよ。それに、それは身勝手じゃないと僕は思う」

「有り難う」

 そして、彼女は少しだけ笑顔を見せてから――号泣した。


( 終わり )

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