第四話 「上海の動詞形って」

「私、思うんだけどさぁ」


 放課後の図書館。

 僕がトーマス・マンの『魔の山』をぼんやりしながら読んでいると、隣で『筒井康孝全集 虚構船団』を集中して読んでいた朝倉菜摘が、唐突にそうささやいた。 

 僕は身構えつつ、

 ――お前、まさか今まで『コココ』のところをいちいち黙読していなかっただろうな?

 という疑念を持ったが、そんな些細なことは菜摘には関係がない。彼女はいつものように、黒目がちのキラキラした瞳でこちらを見つめながら、抑えた声でこう続けた。


「上海の動詞形って、なんだかおかしくない?」


 やはりいつものやつだったが、今日のは捨て置けない内容である。僕は眉をひそめて、囁いた。

「なんだよ、上海の動詞形って。上海はどう考えても固有名詞じゃないか」

「あれ、知らないの?」

「知らないよ」

「ふうん。水沼君にも知らないことがあるんだ。じゃあ、私が優しく教えてあ・げ・る・よ」

 菜摘は自慢げな顔を僕のほうに突き出しながら、右手の人差し指を左右に振りつつ、そう言った。実に鬱陶しいが、しかし、話の続きには大変興味がある。そこで、素直にこう言った。

「宜しくお願いします」

「承知しました。でね、英語の辞書で『Shanghai』という単語を引くと、動詞形があるのよ。例文ないけど、あったら『I shanghaied him』かなぁ」

「何で過去形なんだよ。まあ、そこはいいけどさ。それで、例文の意味は?」


「それがさぁ、”私は酒や麻薬などで彼の意識を失わせて、船に連れ込み水夫にした”なのよ」


「……はあ?」

 僕が呆気あっけに取られると、菜摘は苦笑した。

「やっぱりそういう反応になるよねぇ。でもさ、上海だったらそんなことがありそうだと思わない? 特に、一八〇〇年代末期の阿片アヘンくゆらす紫煙がただよう魔都『上海』だったら」

「へ? あ、まあ、そんな感じがしないこともないけど……」

 菜摘の言う魔都『上海』のイメージがよく分からなかったが、まあ、確かに酒や麻薬で意識を失わされて水夫にされた者ぐらいは、昔の上海ならばいたかも――いやいや、ちょっと待てよ。

「……やっぱりないわ、いくらなんでも」

 そう言ってはみたものの、菜摘はお構いなしで暴走を続けた。

「でね、これが『Yokohama』の動詞形だと、"私は日本人少女に赤い靴を履かせて、船で生まれ故郷に連れて帰った”になるわけですよ」

「いやいや、その理屈はおかしい。なんだよ横浜の動詞形って。じゃあ、『Norfolk』だと、”私は、愛国心に燃える若者達を湾岸戦争に派遣した”になるじゃないか」

「ノーフォークって、そういうところなの? よく分かんないけど――」

 菜摘は一瞬だけ怪訝けげんな顔をしたが、長くは続かなかった。

「――でもさ、言葉が喚起するイメージってあるじゃない?」

 そう言うと、鞄の中からレポート用紙を取り出して、四つの文字を躊躇することなくさらさら書き出した。そして、満面の笑みを浮かべつつ話を続ける。

「こんな風に漢字で『魑魅魍魎ちみもうりょう』と書いてあると、字面からして得体の知れない生き物が、こううじゃうじゃとんずほぐれつしている感じがばしばし伝わってくるじゃない」

「ああ、それはなんとなく分かる」

 僕は同意しつつ、”魑魅魍魎”とすらすら書き、しかもそれを一点の曇りもない笑顔で人に見せつける女子高生の存在に驚いたが、そんな些細なことはやはり菜摘には何の関係もない。

 彼女は黒目がちのキラキラした瞳を一層輝かせつつ、こう続けた。

「だよね、分かるよね。さらに、カタカナで『チミモーリョー』だと、酔っ払ったサラリーマンのお父さんが居酒屋でくだを巻いている感がハンパないよね」

「ごめん、それはよく分からない」

「えーっ、なんでよー」

 菜摘はふくれっつらをしたが、それがまたなんともいえないほどに可愛鬱陶しい表情だったので、僕はちょっとどきりとした。

 その動揺は顔に出ていないと思うのだが、菜摘は真顔に戻ってから、こう言った。

「ところで水沼君――」

「なんだよ」


「――水沼君の名前ってとっても水に強そうなイメージなのに、どうして水泳苦手なんだろうね」


 余計なお世話だよ。


( 終わり )

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