第三話 「ピンとキリって」

「私、思うんだけどさぁ」


 美術の授業中、学校の屋上で僕が風景画を描いている時に、隣で何故か犬の絵を描いていた朝倉菜摘が、唐突にそんなことを言い出した。

 僕は身構えつつ、

 ――こいつ、無駄に絵が上手いな。

 と、彼女が描いている犬の写実的な可愛らしさに驚嘆きょうたんしたが、そんなことは菜摘には何の関係もない。それゆえ、”空気を読む”という慣用句が記載されていない辞書を持つ彼女は、そのまま話を続けた。


「”ピンからキリまで”っていう言葉があるけど、どっちが良いほうなのか全然ピンとこないよね」


 今日もきた。どうでも良い疑問。

 しかも地味に本人すら気がつかない駄洒落だじゃれが混じっている。流石さすがに今回はスルーしたほうがよいかな――そう瞬間的に思っては見たものの、結局は己の欲求にこうし切れなかった。なぜなら、今回の件も昔調べたことがある。

 僕は鼻から息を抜いてから、話し始めた。

「ぷしゅう。菜摘はどっちが上だと思うんだよ」

「ええと、ピンのほうがキリよりは細いから、キリの勝ちかな」

「なんだよそれ。そもそも、ピンは安全ピンのピンじゃないし、キリは大工道具のきりじゃないよ」

「じゃあ、同列とか。さもなければ兄弟――ピンキリ兄弟」

 菜摘は、しごく真面目な顔でそう言った。これも、絶対に元ネタを知らないはずなのに、結果として駄洒落になっている。 

 僕は溜息ためいきをついた。

「はあ。あのね、”ピンからキリまで”というのは博打ばくちが語源になっているんだよ。『ピン』というのはポルトガル語の『ピンタ』――日本語だと『点』だけど、ともかく一を表す言葉なんだよ。例えば、丁半博打でサイコロの目が一で揃うと『ピンぞろ』って呼ぶだろ。それと語源が同じ」

「丁半博打なんか知らないわよ。まあ、いいけど。それで、キリのほうは?」

「こっちも同じくポルトガル語の『クルス』――日本語だと『十字架』だけど、数字の『十』を表す言葉だよ。また、花札ではピンが一月の松の札、キリが十二月の桐の札を指していて、”ピンからキリまで”というのは一月から十二月までの呼び名だったりもする。語源からすると、ピンが最小でキリが最大になるんだけど、今では逆の意味で使われている。つまり、ピンが最高でキリが最低。一万円札のことを別名『ピン札』と呼ぶから、それで覚えるといい」

「ピン札という言い方も知らないわよ、まったく」

 そう言って菜摘は視線を左上に向けると、あごに右手の人差し指をつけながら言った。

「あれ? じゃあ、似たような言葉で”いちかばちか”ってあるじゃない? あれはどうなのよ」

「そっちも博打が由来だけど、諸説あるね。おいちょかぶで『いち』が負け、『はち』が勝ちだからとか、丁半博打で”丁か半か”と言っていたのが、次第に丁の字の上と半の字の上をとって”一か八か”と言うようになったとか」

「何それ。ただのこじつけじゃないの?」

 菜摘のストレートな意見に僕は苦笑した。こういう分かりやすいところが、彼女の長所である。

 僕は右手を振りつつ、話を続けた。

「いやいや、もっとすごいのがある。”のるかそるか”だけど、『のるか』の語源はインドネシア語の”地獄ノルカ”で、『そるか』のほうはインドネシア語の”天国ツルガ”がなまったものだって言われている」

「ええっ、それはいくらなんでも無茶苦茶じゃない。しかも、乗るほうが地獄で、反るほうが天国って。普通逆じゃないの?」

「あれ、今もしかして『のるか』のほうを車に乗るという風に考えなかった?」

「そうだけど……違うの?」

「全然違うよ。『るか』は”長くのびる”という意味だって、広辞苑に書いてあるよ」

「そうなんだぁ。でもさ、『広辞苑に書いてある』って言われると、なんだか敗北感がハンパないよね」

「えっ……ああ、確かにそんな感じがするかなぁ」

 実のところ良く分からなかったが、空気が読める僕は即座に話をあわせる。

 すると、菜摘は流し目を僕に送ってから言った。

「ところで、水沼君――」

「なんだよ」


「――水沼君の声って、なんか恰好いいよね。イケボ」


 そう言いながら、菜摘は急にスマホを取り出して操作し始めた。しばらく黙ってみていたが、なにやら一所懸命にやっているようである。

 ――急に興味を失ったのだろうな。

 そう思い、ちょっと残念な気分になりながらも、ついでに僕は菜摘に釘を刺すことにした。

「まったくもう。僕は今、写生をしているところなんだから邪魔するなよ。気が散って上手くけないだろ」

 と、そう言ってしまってから、実に不味まずい表現になっていることに気がついた。

 菜摘も、普段は空気が読めない癖に、こういう時だけ実に察しが良い。顔を真っ赤にして、スマートフォンの画面を僕の顔の前にかざしている。


 スマホのボイスレコーダーが、十数秒前から録音を開始していた。


( 終わり )

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