第二話 「豆腐と納豆って」

「私、思うんだけどさぁ」


 昼の食堂で僕の隣の席に座った朝倉菜摘は、ひどく真面目な顔できつねうどん(関東)をすすった後、油揚げをはしで持ち上げながらこうつぶやいた。

 僕はカレーライスをスプーンですくい上げた状態のまま身構える。すると、可愛鬱陶かわうっとうしい彼女はいつもの通り黒目がちのきらきらと輝く瞳で、僕を見つめながらこう言った。


「豆腐と納豆って、名前が逆じゃないのかな」


 いつもと同じ、どうでも良い疑問である。ただ、これは普通に思い浮かびそうな疑問で、その内容を菜摘はこう表現した。

「だってほら、大豆が腐ったのが納豆で、大豆を入れ物に納めて固めたのが豆腐じゃない。なんかイメージが逆だよね」

 確かに、彼女と同じように考える人は少なくなかろう。

 しかし、僕はあるところでその語源を聞いたことがあったので、その時も己の欲求を抑えることが出来なかった。

「いやいや、豆腐は豆腐で正しいし、納豆は納豆で正しいんだよ」

「どうしてよ。分かるように説明して頂戴よ」

 そう言って口をとがらせる菜摘の顔を、不覚にも「あ、可愛い」と眺めつつ、僕は咳払いをして言った。

「おほん。まずは豆腐のほうから説明するね。実は『腐』には”柔らかいもの”という意味があるんだよ。もともと豆腐自体が奈良時代に中国から伝わってきたものと言われているんだけど、中国語の『腐』には”腐る”という意味だけじゃなくて、”液体が固まった柔らかいもの”という意味もあるんだ。例えばヨーグルトは乳が腐ったと書いて『乳腐ルウフウ』と呼ばれることがある」

「ふうん。まあ、発酵と腐敗は別なものだし、見た目が明らかな納豆と違ってヨーグルトを『牛乳が腐ったもの』とは思わないかな」

「だろう? それに、日本で初めて豆腐のことが書かれたと思われるのは、平安時代の春日大社の神主さんの日記の中でなんだけど、その時は遣唐使の『とう』に切符の『』と書かれていたんだ。そして、実際に『豆腐』という字が最初に使われたのは、鎌倉時代の日蓮上人の書状の中でだよ」

「あれ、それじゃあ日本人が名づけたの?」

「どうかなぁ。中国でも豆腐は”豆腐”という名前だしね」

「なんだかすっきりしないわね。まあ、いいけど。じゃあ、納豆はどうなのよ」

「こちらは諸説あるんだけど、江戸時代の『本朝食鑑ほんちょうしょっかん』という書物には、お寺の『納所』――要するに物置の中で作られていたものだから、”納所の豆”と呼ばれたという記述がある」

「あら、こっちはやけに簡単なのね」

「他にもいろいろ説はあるけど、どれも似たようなもんだね」

「ふうん。ところで水沼君――」

 そこで菜摘は眼を細めた。


「――どうしてそんなに豆腐と納豆について詳しいのよ?」


 聞かれると思った。

 僕は小さく息を吐いてから、彼女の疑問に答えた。

「ふう。実はさ、先日親戚のお兄さんが結婚したんだけど、その結婚式に呼ばれた新婦の上司の実家がお豆腐屋さんで、急にこの話を始めたんだよ」

「なんで部下の結婚式で豆腐と納豆の話なんかするのよ。その上司、頭おかしいんじゃないの?」

「まあまあ、確かに僕も最初は話の方向性がつかめなくて困惑したんだけど、その人は今言ったような語源を説明した後で、こう言ったんだよ」

 僕はそこで少し背を伸ばしてから、話を続けた。

「ところで、豆腐は豆をつぶして作りますが、そのままでは決して固まることがありません。豆が固まるためには”にがり”が必要になります」

「ちょっと待った。”にがり”ってなによ」

 急に菜摘が話に割り込んできたので、僕は苦笑した。

「聞かれると思ったよ。”にがり”というのは海の水からとれる塩化マグネシウムを主成分とした食品添加物で、豆乳を固めるのに使うんだ。要するに凝固剤」

「分かった。途中で口を挟んだりしてごめんなさい。話を続けて」

 この、自分の非をすみやかに認めるところが、彼女の最大の美点である。

 僕はにっこり笑うと、話を続けた。

「そして、”にがり”というのはその名前の通り、とてもにがいものです。しかし、それがないと豆腐は絶対に固まりません」

 そこで僕はいったん話を切る。

 そして、菜摘の真剣な眼差しを見つめてから、口を再び開いた。


「お二人の間にはこれから苦い経験が多々あるかと思いますが、それはお二人の間を強く固める”にがり”です。それで、お二人の絆がさらに強固になることを祈念しております」


( 終わり )

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