第十章 明暗境界線 ③

 J達は増田の案内でエレベーターに乗り込んだ。

 高畑を含む、他の研究員達は、図書室に軟禁状態にある。

 見張りを4人残した。

 エレベーターに乗り込んだのは、12人。

 増田が押したエレベーターの階数は80。

「80階ってよお。サーバーとかPCのエリアだろお?」

「グッキュ」

 エレベーター内でロンが言うと、ウィルが「そうだ」と頷いた。

「なぜサーバーエリアに壬生沢博士が?」

 Jが増田に聞く。

 増田はエレベーターの階数パネルを見つめたまま、振り向かずに応えた。

「それは…行けば分かる…」

 紅穂は嫌な予感がした。真剣な問いに人が答えない時、それは暗に答えにくいか、答えたくない質問であることを意味するのは、高校生でも分かる。

 エレベーター内はそこから先、沈黙のまま上昇した。

 80階に着く。

 開かれた扉の向こう、そこは、無人だった。

 紅穂の中で、ふとした疑問が湧いた。エレベーターに乗り込む前に「無人のはず」と増田は言ったが、その階におじいちゃんがいる?

「こっちだ」 

 増田が先頭に立ち、歩き出す。紅穂始め、J達が続く中、茉莉花は後ろ歩きで最後尾に下がると、エレベーターホールを見張る様に命じて2人の裏戸隠を残した。

 残る10人で、奥に進む。

 一行は廊下を一番奥まで進むと、増田が突き当り左にある部屋のドアを押した。

 がらん、とした無機質な空間だった。薄暗い。窓のない部屋のあちこちで、小さな光が点滅や点灯している他は、ほとんど照明がない。

 少しずつ、目が馴れる。

 正面に大きなモニターがあり、入り口を除く三面の壁に、機械が沢山ある。

 壁際の機械には、小さなモニターがいくつも付いている。

 紅穂にも一見して、PCだと分かる物もいくつかあった。 

 増田は黙って正面の一際大きな黒板大のモニターに近づくと、手前にあるデスクの上のパネルに掌をかざした。

 モニターに光が入る。

 紅穂はモニターを見つめた。

 何も映らない。

 2、3秒経って、背後で部屋の中央が急に明るくなった。

 振り返ると天井の暗闇から、ほぼ真下にスポットライトが降っていた。

 薄暗い部屋で、唯一と言っていいほどの光量に、自然、全員が中央スポットライトの光を見た。

 よく見ると、スポットライトの照らす先の床は、一段高く、直径一メートルほどの丸い台になっていた。

 スポットライトが作る切り取った様な三角錐の光の空間に、突然人影が現れた。

「おじいちゃん!」

 一番早く反応したのは、紅穂だった。

 人影が、紅穂の方を見た。

「紅穂」

「おじいちゃん!」

 紅穂は人影に走り寄った。

 違和感にはすぐに気づいた。

 近づけば近づくほど、人影の後ろにある暗闇が透けて見えるのに気づいたから。

 本当は確かめるように抱き付きたかったが、出来なかった。

 光の中で腕を広げるおじいちゃんを見て、もう分かっていたから。

 それはいわゆる立体ホログラム。

 実体じゃない。

 紅穂はホログラムの手前で戸惑うように減速し、立ち止まった。

 ホログラムと見つめ合う。

 その姿は確かにおじいちゃんだけど、そこには居なかった。

「紅穂。なんでこんな所に…」

 壬生沢博士は手を伸ばし、紅穂に触れようとした。しかし、その手は、スポットライトの作る光の世界から出ることはなかった。

「増田さん」

 Jが増田の名を呼んだ。

「はい」

 増田は短い返事だけ返した。

 光の中で困ったような顔をした壬生沢英智、その人がJの声に反応して顔の向きを変えた。

「七川目君…そうか…あそこから出たのか…紅穂を連れて来たのは君達か?」

「はい。優秀なお孫さんに、佐々堂と博士が作ったセキュリティーを破られました」

 Jが言うと、壬生沢教授はあはは、と楽しそうに笑った。

「そうか。その展開はまったく予想もしてなかったよ。紅穂は昔から妙な事をやらかす子でね。それにしても、君達のことが心配だったんだ。君や佐々堂君はまだ大丈夫だとして、宇城隈君は、体が悲鳴を上げていただろう?来ているのかね?」

「んだよ。久しぶりだっけ」

 ロンが返事をした。

「ああ。良かった。その声の様子だと間に合いそうだね。ここは暗くて、良くは見えないんだ」

 ホログラムが言った。

「おじいちゃん…どうしたの?今どこに居るの?なんで映像なの?」

 紅穂がホログラムに問いかけた。

「紅穂…済まない」

「すまない、じゃなくてちゃんと説明して!」

「壬生沢博士。出来れば俺達にも教えてください。増田さんは説明したくないようなんです。大概の事は、増田さんやコニー、神室川に聞きました。俺達を実験に使ったことも。恨んだり怒ったりしている訳ではありません。事情も聴きました。後は博士の事です。出来れば手短に。時間がもうあまりないんです」

 Jが言った。

「そうか。出来れば紅穂には知られたくなかったがやむを得ない…手短に言うのならば…私は死んだんだ」

「!」

 紅穂は口元を抑えた。

「死んだって、生きてんじゃんよお」

「グッキュ」

 ロンと、ウィルがホログラムに近づく。

「生きている、のかも知れない。こうなってくると、生と死の定義は非常に難しい。だが、地上で暮らしていて壬生沢英智は、最早、存在しない。ここに居るのは私だが、その実は、どこにも存在しない」

「つまり?」

 Jもホログラムに歩み寄り、聞いた。

「肉体はもうない。意識だけ残されている。おそらく、再生技術の応用で、脳だけ残し、このPCとなんらかの形で融合させられたのだろう」

「なんてことを?!なぜそんなことを?!増田さん!」

 Jが振り向き、増田に問いかけた。増田は光の当たらない所で顔を伏せ、眼鏡を外した。

「七川目君。増田君を責めないでくれ。彼は答えづらいだろう。彼だって不本意だった、そう思ってる。単純に言うと、私が田丸と高畑に逆らったからだ。これ以上協力出来ない。これ以上理不尽な協力を強いるなら、考えがある、と」

「博士…」

「まさか、すぐにこういう処置に来るとは思わなかったよ。やつらを甘く見ていた。それなりに重要な人間だと思っていたんだが、やつらにとっては違ったようだ。その人間性なり分かっていたら、君達に相談したり出来たんだが。自分の価値観で相手を計るもんじゃないな。学問する者として大いに勉強になったよ。代償は大きかったがね」

 ホログラムは首を振り、そのまま垂れた。

「おじいちゃん…ねえ増田さん!さっき、みんな治せるって言ってたよね?!」

「紅穂…」

「おじいちゃんも治せるんでしょ?ねえ?ねえ?J、治せるよね?」

「紅穂」

「おじいちゃんも知ってるんでしょ?ねえ?どうすればいいのか教えてよ!」

 紅穂は増田に叫び、Jを揺さぶった。何度も呼ぶ、壬生沢博士の声を無視するように。

「紅。落ち着けよお」

「ロン!ねえ!ロンなら分かる?」

「グッキュ…」

「ウィル!きっとそんな道具があるんだよね?」

「紅穂」

 ホログラムが再び語り掛けた。

「嫌だ!もう嫌だ!ウソだ!おじいちゃん、そういう呼び方するときは、あたしにお説教するときだもん!聞きたくない!」

「紅穂。大切な紅穂。頼むから聞いてくれ。おじいちゃんのお願いだ」

 ホログラムが心からの優しさを音に乗せて紅穂に届けた。その場の全員がそれを感じたし、それは紅穂にも正しく届いた。

 紅穂は涙でくしゃくしゃの顔を上げた。

「おじいちゃん…嫌だよお…」

「ごめんな。おじいちゃんのせいで悲しませたね」

「うう…」

 紅穂にJ、ロン、ウィルがハンカチを差し出した。紅穂は全部受け取ると、涙を拭き、鼻水をかんだ。

「そうか…仲良くなったみたいだな。ありがとう七川目君。宇城隈君。佐々堂君。ここに来るまで紅穂を守ってくれたんだろう?」

「いいえ、守ったというよりは、彼女は優秀なチームの一員でしたよ。彼女のエネルギーが、俺達をここに来させてくれたんです。彼女の、博士を思う気持ちがね」

「んだよお」

「グッキュ」

「そうか。自慢の孫なんだ。どうか最後まで無事に送り届けて欲しい」

「約束します」

「任せろお」

「グッ」

 ホログラムとJ達が会話している内に、紅穂は落ち着きを取り戻した。

「ねえ…おじいちゃん。あたし、どうすればいい?」

「そうだな…」

 言葉を区切ると、壬生沢英智は光の中で目を瞑り、そのまま斜め上を見上げるようにして続けた。

「そうだな…、まさか会えるとは思っていなかった…いや、それは嘘になるか…なんとなく、もう一度、紅穂に会える気がしていたんだ。そして、もし会えたら、その願いが叶ったら、とても幸せなことだし、その幸せの中で紅穂にお願いしたいことがあったんだ。聞いてくれるかい?」

「うん。聞くよ。あたし、どうすればいいの?」

「おじいちゃんを、休ませて欲しい」

「休ませる…って?」

「そうだな…おじいちゃんの意識が入ってる機械を、増田君に教えてもらって、壊して欲しいんだ」

「えっ!?」

「博士」

 紅穂が再び取り乱すのを恐れたのか、Jが口を挟んだ。

「七川目君。君でもいい。どうか、私を、本当に死なせてくれないか?」

「しかし…」

「辛いんだよ」

「いや、しかし…」

「昔、論文で読んだことがある。人間は、寝ている間に発狂することで、なんとか世界と折り合いをつけて生きていられると。身に染みたよ。知識は実感とはまた違う次元にある。怖れを知るべきだった。今の私に睡眠はない。連続した意識がどこまでも続く。スティーブンキングの書いた小説に、好奇心のあまり永遠に迷い込む少年の物語があるんだが、まさに、ホラーだと実感しているよ。想像しただけで怖ろしい話だったが、事実は想像の遥か上を行く苦痛だと分かった。休みのない連続した思考が、徐々に自分を、本来あるべき自分を蝕んでいくのが何よりも怖ろしい。実体のない世界で、寄るべきものはなく、どう頑張っても思考が散漫になり、自我を保つのが非常に困難になりつつある。既に生は意味のない物に成りかけているし、自分が自分で無くなった後に続く生の中で、傍観者の様にそれを眺めているのも、また怖ろしい。永遠に傍観者でしかない世界で、永遠に無機質な世界を見せられ続ける苦痛を…分かってくれないか?私は人間として、私が私である内に、人間らしい感情を持っている内に、永遠の眠りに着きたいんだ。それでこそ、私が死んだ、ことになるんじゃないかね?そうでなくては、私は私が死んだことすら分からないまま、生き続ける苦痛を味わうことになる。しかも、自分では終わらせる事の出来ない苦痛だ。こんなに残酷なことはないだろう?私は無論、完全無欠な人間ではない、いや、なかった。妻にも、息子や娘、孫、そして君達にも、多くの人に迷惑をかけた。自覚していないものも含めれば、より、多くの人に迷惑をかけたのだろう、と思う。しかし、これほどの、仕打ちを受けるほどの悪事を行った覚えはない。よしんば、これが自らの行いに対する何らかの罰だとしたら、甘んじて受けることもやぶさかではない。だが、もう十分だ。頼む。もう、永遠の安らぎを与えてくれないか?」

 全員が黙って顔を伏せた。答えようがない中で、独り、紅穂が、意を決したようにひとつ頷くと、顔を上げてホログラムと向き合った。スポットライトの光を浴びて、その頬に涙の痕が光っていたが、その瞳は、もう涙を湛えていなかった。

「分かった」

「紅穂」

 Jが顔を上げる。 

「死なせない」

「紅穂…」

 ホログラムが悲し気に眉を顰めた。

「眠らせる」

「おお?!」「グッキュ?!」

 ロンとウィルが顔を上げた。

「眠らせる、って、紅穂…」

「おじいちゃん。今は戻せないって分かった。でも、いつだって、駄目だと思ったら、もう絶対にダメになる。何とかしようと思ったら、何とかなるかも知れない。今は駄目でも、明日はどうか分からない。10年、20年、もっと先に何とかなるかも知れない。もちろん、あたし一人じゃ、何とかなるって思えないかもしれない。でも、みんな居るから、絶対大丈夫。ちゃんと考えて、もうどうしようもなくなるまで、考えて努力させて。だから、今は、眠っていて。あたし、これから科学者になるから」

 そう言って紅穂は、胸元のペンダントを取り出した。

「ヒュプノクラウン…そうか…紅穂。大きくなったな」

「もっと大きくなる。そして、おじいちゃんに、その手で柱の傷を付けてもらう。今年の分、まだやってもらってないんだから。それまで眠ってて」

 壬生沢博士は頷いた。

「ああ。分かった。その赤い石は?綺麗な宝石だね。それも神魔器かい?」

「ううん。これは違う。これはあたしの冒険の証。あたしだけに意味のある特別な石。綺麗でしょ?みんなにもらったんだ」

「ああ。良く似合うよ」

 紅穂はホログラムに近づいた。  

「増田さん。おじいちゃんの脳はどこにあるの?」

「その下です。その台の下。紅穂ちゃんの足元」

 増田が目をこすりながら暗闇から出てきて、眼鏡をかけ直すと、ホログラムの下の台を指さした。

 紅穂は頷くと、ヒュプノクラウンを握り閉めて、しゃがみ込んだ。

 顔を上げて壬生沢教授のホログラムを見る。

「おじいちゃん。お休みなさい。またすぐに会えるよ」

 ホログラムは微笑んで頷くと、静かに目を閉じた。 


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