第一章 奇妙な出会い
紅穂…新世界とは、今まで存在しなかった価値観のこと
1
ひっ、と息を吸って肺とか心臓とかを置き去りにしたまま、下に引っ張られて落ちる。
タワオブテラーと似て非なる。
落ちると分かって落ちるのではない、終わりの見えない落ち方はほんとに嫌だ。
怖い。
このままだと怖くて死ぬ、と思った瞬間にボスン、と何かに飲み込まれた。
「痛て《いて》」
条件反射的に言葉にしたが、実際そんなに、いや、まったく痛くない。
重量的な都合上、お尻から着地したが、今着地した場所は、人をダメにするクッションばりに心地よい。
むしろ沈み込む感覚はそれ以上かもしれない。
両手を使って体を起こす。
最初にそろそろと、次にきょろきょろきょろりと周りを見渡す。
なんだここ?
見上げると、マンションの二階部分くらい上に、丸い穴が光っている。
落ちたところだと分かるけど、登るのは無理そう。
周囲はいわゆる円筒状で、岩肌ではない、なにかつるつるしたもので表面が覆われている。
しかし、上の穴に届かないとすると、どうしたらいいのだろう。
見たところ、周囲に穴も取っ手もない。引き戸もドアノブも。
そのまましばらく、ぼおっとする。
脳裏に浮かぶのは、アップルウーロンソーダの画像だけ。
飲みたかったなあ…アップルウーロンソーダ。
こんなに奇妙な状況なのに、思考が他に回らない。
さっきまで、死ぬ死ぬ思っていたのに、一旦落ち着くと、急に眠くなってきた。
時間も時間だからしょうがないんです。
ていうか、この床ヤバい。
自分の中の誰かに言い訳すると、紅穂はパタンと横に倒れ、フワフワに寝た。
2
おじいちゃんが手招きする。
おじいちゃんは行方不明のはずだが、昨日の夜、帰ってきたらしい。
紅穂の家か、おじいちゃんの家か分からないけど、隠し部屋に通じる隠し階段が現れる。
自分が喜んで、はしゃいでいるのは分かるけど、なぜか音が全くしない。
おじいちゃんは、時折見せるはにかんだ笑顔で不器用に頭を撫で、急に真顔になると階段の先を指さす。
そこは暗く、でも遥か先にぼんやりと何か光っているのははっきり分かる。
ちょっと不安になっておじいちゃんを見ようとすると、もういなかった。
代わりに何か温かいものが顔や二の腕の辺りにいるのを感じる。
空気のようだけど、もっと部分的で、もっと物体感、存在感があるもの。
幼いころから仲良しの、コアラと象を足して2で割ったようなぬいぐるみに近い大きさ。
見えないけど分かる。
ミル?
ギュッと抱きしめる。
「イテテ」
腕の中でぬいぐるみが暴れる。
でも、もう少し寝たいからギュギュっと抱きしめちゃう。
「イテテ、やめれ」
変だ。
触感のモフモフはともかく、音声がリアル。
一瞬、抱きしめる腕を緩めて、もう一度強く抱きしめてみる。
「やめれって。や~め~れ~」
遠くではなく、振動で音が伝わる至近距離で声がした。
同時にもぞもぞと腕の中で動く感触。
はっ、として腕の中の物体を突き飛ばすと跳ねるように起き上がる。
寝起きの視界は良好な方で、すぐに周囲がぼんやり光を反射する青色の床だと分かる。
視界の中央、2メートルほど向こうに丸い塊がもぞもぞしている。
多分、フワフワしてる。
周りの床より、少し濃い青色。
塊は丸から四角になり、そして5歳児くらいの子供になった。
でも、耳がある。
人間のじゃない、クマとかコアラみたいな丸い耳。
「イテテ。いてーよお」
コアラ幼児が頭をふりふり言った。
「だから言っただろうが」
右後ろで渋い声がして振り返ると、犬が居た。シェパードだ。黒というより、ブラウン多めのタイプ。それはそれとして、なんか変。だって立ってる。
「知らない人キュルッキュー」
左後ろで高い声。今度は左後ろを振り返ると、大きなリス。この前見た、クワッカワラビーに似ている。青い床の色を反射してるが、白いって分かる。
夢か。夢に違いない。
ベタに頬を叩いてみる。
ダメだ。醒めない。ベタだから?ベタベタだから?ベタベタ同好会だから?ベタベタ同好会ってなんだっけ?
太ももをツネってみる。痛い。普通に痛い。
目の前のモフモフしたコアラグマ(命名紅穂、学術名アオイロモフモフコアラグマ)は口を半開きでちょっと舌を出したまま、ぼりぼりとお腹を掻いている。
ええい。こうなったら最後の手段!
紅穂は舌を歯と歯の間からほんのちょっと出すと、目をつぶって甘噛みした。
くすぐったいだけで、痛くもなんともなく、目も醒めない。
てことは、つまり、寝ていない。あるいは醒めている?
小首をひねっていろいろ考えていると、目の前のモフモフが近づいて(相変わらずお腹を掻いたまま)言った。
「おめえ、変な奴だな」
独特のモチャモチャした口調の癖に、かなり断定的なセリフにビビる。
「な、なによあんた。変なのはそっちじゃない!」
後ずさりながらも言うことは言う。
「だってよ~。なあ、J」
「まあな。その点に関してはロンの言う通りだ」
すごく自然にスタスタと後ろから通り過ぎると正面に回ってシェパードが言った。
「変な人キュル」
四足で走り抜けると、コアラグマの肩に駆け上ってクワッカワラビーが言った。
「ぶふふっ。ウィルが言うんだから変な人確定~」
モチャモチャとコアラグマ、略してコアグマが言う。
ううぅ、何なのよ、このシチュエーションは!
「まあ落ち着き給え」
J、と呼ばれたシェパードが渋い声で言った。低く、自然と信頼感を感じさせるその声を聴くと、気分が妙に落ち着く。Jは腰に当てていた右手を眉間に持ってくると考え込むようにうなだれた。
だんだんと暗闇に目が慣れてくる。
周りは全体的に青いのだが、左右共にすぐ壁で、天上に向かって湾曲している。足元は相変わらず、沈み込む感覚の床。
どうも、円形状の部屋らしい。
右手の壁にある嵌め殺しの丸い窓は、ゆらゆらと波のように青と青白さとを行ったり来たり。
水音がするわけではないが、近くの水面に光が反射しているようだ。
匂いで分かる。
昔おじいちゃんと行った鍾乳洞を思い出す。
水の匂い、壁で揺れる光の波、清涼剤の味のする空気。響き渡る声、不安と畏怖で走る寒気と立つ鳥肌。
そんな神秘的な青い空間に、奇妙な生き物3体。3人?3匹?
太陽の下では、どうしたって受け入れられない状況も、この空間ではむしろ必然に思えてくる不思議。
じろじろと観察してみる。
3体(とりあえずしっくりくる)はそれぞれ、7歳児、5歳児、ウサギぐらいの大きさ。
昨日小学校の従兄弟に会ったから、ついつい基準が小学生目安になってしまう。 ウィル、と呼ばれたクワッカワラビーそっくりの生き物だけは、ちょっと小さすぎる。
ずっと欲しくてしょうがないチンチラ級の大きさだ。
顔はクワッカワラビーにしか見えないけれども。
でもしょうがない。
クワッカワラビーは画像でしか見たことがないので、そのサイズ感が分からないので。
奇妙な生き物の奇妙な所以として、まず立っている。
これは重要。
単に服を着ている、それも、軍服みたいなお堅い感じの青い服を着ているだけだったら、飼い主が軍服マニアか、動物を使って世界征服をしようと考えている変人が出てくる夢、ということで十分納得できたと思う。
でも、さすがにこんなにしっかり2足歩行(ただし、チンチラワラビーを除く)されると、ちょっとあれだ。ある種の非日常を認めざるを得ない。
しかし、落ち着けと言われて落ち着いて考えてみると、だんだん腹が立ってきた。
奇妙というか、あきらかに常軌を逸している生き物に面と向かって「変な生き物」と言われたら、クラスの五割は腹が立つ方に一票入れると思う。
そう考えると、少し心の余裕が出てきた、というか、少し背筋が伸びてきた。
いろいろ考えた結果、モソモソ、モチャモチャ動いているコアラグマとワラビーは無視して、賢そうなシェパードに話しかけることにした。
「ねえ、ここはどこ?あ、あと、あなたたちは何者なの?」
シェパードは眉間に当てていた手を下ろし、顎に当てると、半目を開いて紅穂を見た。
それはあまりにも人間臭く、知性を感じさせる仕草で、目の前の生き物が犬なんだかなんなのかますます分からなくなってくる。
睡眠不足も手伝って、もうクラクラ。
シェパードは右手の(毛むくじゃらだが、人間の手に近い)人差し指を立てると言った。
「まずひとつ。ここは壬生沢博士の子供のころの秘密基地」
続いて中指を立てる。
「次にふたつめ。答える義務はない」
そして薬指を立てる。
「みっつめ。君こそ何者だ?」
「キュル。よっつめキュル。時間がないキュルッキュ」
チンチラワラビーがちょこちょこと走ってシェパードの肩に乗るとそのピンと伸びた耳に囁くように言った。
「あとどのくらいあんのかよお」
全体的に間延びしているが、語尾を特に伸ばして、コアグマが言った。
「60秒キュ」
「クケケ、69秒~?」
「50秒キュ」
「ちょっと怖いから止めてよね!なんの秒読みよ!」
紅穂は後ずさりしながら叫ぶ。
シェパード顔のJは、腕組して言った。
「OK。わかった。しょうがない。この女子も連れて行こう」
「ええ~、だりイ」
コアグマが心底嫌そうに言う。
「とってもスケアクリュ」
チンチラワラビーは何を言っているのかちょっと分からない。
「もう時間がない」
シェパードはそういうと指を一回鳴らした。
コアラグマがのっそりと、ワラビーがサササっと紅穂の左右に歩み寄る。
Jが一歩前に出て、紅穂は左右正面を囲まれる形になった。
「ちょっ、何すんのよ!近寄らないでよ!蹴るよ!あと、噛むから!」
シェパードは返事をせずに左手の腕時計を見る。コアラグマは欠伸をしながらお腹の辺りをぼりぼり掻いている。ワラビーがキラキラした瞳で見上げながらカウントダウンを始めた。
「5キュル」
「4っキュキュ」
「3キュリュリュ」
「2っキュキュキュ」
「1キュルキュー!」
「ちょっ、待っ!」
叫ぶと同時に体が浮き上がり、丸い窓が暗くなった。
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