第二章 見知らぬ境界
紅穂…扉の向こう側とか、延々想像するのが好き。
壬生沢英智…扉を開けたら、そこは現実になる。気を付けなさい。
1
午前二時。
踏切に。
望遠鏡を担いで行った。
お父さんの車で良く聞いた歌。
物心ついてから、自然自然バンプの曲を聴くようになったのは、お父さんの影響だと思う。
これは良い方の影響。
それにしても、スマホを落としていなくて良かった。
心配になってお尻のポケットに手を突っ込んだら、普通に有って大安心。
最悪落としたか、画面が割れていてもおかしくないと思ったのに、無事だった。
お尻から落ちたけど、フワフワモコモコの地面だったおかげだろう。
スマホをもう一度見る。
午前5時30分。
夜更かし最長記録更新。
やった。
おめでとう。
ぱちぱち。
お休みなさ…無理!
ワラビーのカウントダウンが終わった後、紅穂のいる部屋がブルブルッと震えて、動き出した。
それ以降、縦か横か下か上か移動しているみたいだけどよくは分からない。
体は終始、軽く浮いているような感覚。
紅穂の正面の壁にはコアラグマが座っていて、何か歯磨き粉みたいなものを口に咥えている。
その上部、30センチほどのところに赤い文字で三ケタの数字がデジタル時計みたいに表示されている。
数字はだいたい720で、時々719になる。
スマホを見る。
5時31分。
時計とは違うみたい。
「ねえ」
みんな無視。
「ねえってば」
シカト。
「ちょっとそこのコアラみたいな!」
歯磨き粉を舐めていたコアラグマがピタッと動きを止めてこちらを見た。
「あんだよぉ」
「これ何よ。今何してんの?」
「うっせい女だなぁ。Jに聞けよぉ」
「J?Jって誰よ?」
コアラグマは黙ってシェパードを指さす。
「だって…ヘッドホンしてるじゃない!」
「めんどくさいよお」
「何が?」
「説明するのが~」
「はあ?」
「着いたら教えるからよぉ」
「キュリュッキュ」
「着いたらって…」
つまり移動中らしい。どういうこと?着替えも充電器も持って来てないのに?
引く。
大いに引く。
分かんないけど、とにかく着いたら速攻電話して何とかしてもらおう。
「あと5分で着くキュ」
今気づいたけど、ワラビーの声って、おじいちゃん家のオルゴールみたいな音がする。語尾が余韻を持って響く。
スマホを見たら、5時37分になっていた。
ほんと、夜は短し、だわ。夜の終わりと朝の始まりは境目が分かんないけど。
とりあえず後は着いてからだ。
何もかもよく分かんないけど、目の前の奇妙で変に愛らしい生き物達は、危害を加えてくる気配がない。雰囲気もなんか、そんな感じ。
ということで、もう辛いので、少し寝ます。
お休みなさい。
仄かに光る青いカプセルの中で、紅穂は少しだけ寝ることにした。
2
走る電車緑のシートで二人目覚める。
何駅か何駅か乗り過ごしたみたい。
遠くまで来たような、遠くに行くような、そんな夢を見てたの。
二人の肩は寄り添ったまま、温かくて、他には何もいらない、呼吸するカプセル。
あなたに会いたかった、ただそれだけで、何年も夢が見れた、呼吸するカプセル。
そっと、水をすくうように、わたしを思い出してね。
これもまた、昔お父さんの車で聞いた歌が流れる。
そうか、全部夢なんだ。
唐突にそんな確証が湧く。
そして、当然のように納得して、物語を進めようとする。
全部夢だから、全部本当で当たり前。
犬も歩くし、コアラグマも軍服は着る。チンチラみたいなワラビーみたいな生き物がキュリュキュルしゃべっても全然平気。
「キュルッキュ。とっても寝るキュ」
「起きれぇ。着いたぞぉ」
「仕方ない。状況が理解できなくて脳に負担がかかっているのだろう」
眩い光の中に、のぞき込むような影。
なんだっけあのことわざ。
カエルの面にハチ?
違う。
井の中の蛙の話。
おじいちゃん家の裏の井戸。
落ちたことはないけど落ちたらこんな風に見えるのかな。
「起きれぇ」
甘い、ブドウのような香りが顔に吹きかかった。
匂いがする、ということは。
はっ、して目覚めると同時に上半身を起こす。
頭が最初柔らかいフワフワしたものに触れ、すぐに固いというより硬い物にぶつかって火花が散った。
「痛い」
「いててっ」
「痛ったぁ。痛いっつーの、マジで」
頭をさすりながら今度は慎重に体を起こす。
「こっちのセリフだっつーのよぉ。マジでよぉ。舌噛んだら死ぬんだっつーの~。おめえ知らねえのかよぉ」
両足をだらしなく投げ出したまま、左手で上半身を支え、右手で頭をさすりさすり片目を開くと、頭の右上に痛みが走る。
目の前では、両手で頭を抱えたコアラグマがホロホロと涙を流している。
どうやら頭突きをしてしまったようだ。
意図したわけではないから、頭突き、というよりは出会い頭の衝突事故。
おあいこ。
引き分け。
痛み分け、になるかぁ!
訳も分からぬままどこかへ連れてこられて、何の説明もされないうえに頭が痛い!
だんだん腹が立ってきた。
「ちょっと!何よこれ何なのよ!」
存分にキレてみる。
まだ少ししか過ごしていないけれど、目の前の珍獣トリオは安パイだ。
安心、安全。
攻撃力もなさそう。
犬はちょっと歯が怖いけど。
でも大丈夫。
ワンちゃんは有史以来人間の友達。
ましてやシェパードは人間を守ってくれるのが習性のはず。
よく知らないけど。
ミルはもう起きたかなぁ。
ミルは探しに来てくれないかなぁ。
パンッ、と目の前で、黒と茶色の入り混じった柄で短い剛毛の手が打ち鳴らされた。
目をしばしば。
犬なのに猫だまし。
いつの間にか有史以来の人間の共にして、人を守りしと噂のお犬様が佇んでいた。
身長的には155センチの紅穂の胸元ぐらい。130センチほど。
鋭い眼光は、犬的な知性を超越した悟性を感じさせる。
多分、あたしより頭いい。
しかも、断然。そん予感がする。
将棋でも、知恵の輪でも、数Ⅱでも勝てる気がしない。
勝てるのは多分、恋バナとあと水泳?あっ、知ってるアニソンの数とハイキューの名セリフでも勝てるかも。
黙って目の前で腕組みするシェパードに、怖い怖くないではなく、敬意を声に込めて聞き直すことにした。
「あの、教えてくれますか?」
相手は自分より背丈は低いけど、やや上目遣い風味をまぶす。
こうすると売上が上がる(売上?)と楓が言っていた。第二ボタンは最終兵器だし、紅穂にはまだ(場合によっては一生)使えない技らしいので断念する。
今、無性に楓の働いてるカフェの抹茶パフェが食いたい。
Jは明らかに右眉を吊り上げた。
この表情は知ってる。
訝し気、ってやつ。それと、馬鹿にされてる。
「話せば長くなるが」
「聞かせて。短めで」
「むう。難しいことを言う。まず、そうだな。何なのよ、か」
「そう。ここどこ?何がどうしたの?」
「君は…」
「私は紅穂。壬生沢紅穂!」
「壬生沢…それでか…」
Jは驚いたように目を見開き、納得したように頷いた。
「そうだよな。じゃなきゃセキュリティーが…」
「何よ。あんたたち、あたしのこと知ってるの?」
「いや、知らない。聞いたかもしれないが。私たちが知っているのは、壬生沢博士だ」
「博士…って。おじいちゃん?!」
「やはり。偶然にしては出来過ぎているものな。しかし、あの認証システム、誰でも通るものなのか?」
「誰でもじゃないキュ」
「んだよお」
「しかし、この小むす…博士の孫は通過したぞ」
「登録したッキュルン」
「登録って、ウィル、おまえなぜ勝手に」
「勝手じゃないンリュスケル!」
「んだよ。あの爺がウィルに登録させたんだよ。オレ見てたもん。いつかその女に地下基地見せるって言ってた」
「な…まあ、百歩譲ってそうだとして、ええっと、紅穂…さん」
「紅穂でいいよ!椎ちゃんも楓もそう呼ぶしね」
「それが誰だか知らないが、まあいい。では紅穂。なぜセキュリティーコードが分かった?」
「何それ?美味しくはないよね?」
「こいつアホだ!ケケケケケッ。J、アホがいるよお」
「うっさい!コアグマ!黙れ!」
「ロン、やめろ!おまえら二人ともうるさい!セキュリティー、何だ、あれだ、合言葉みたいなものだ」
「合言葉は知ってるけど知らないなあ」
「キュルキュルキュ」
「ウィルがどっちやねん、だってよぉ!」
「ああややこしい!」
「あなたたちの聞き方が悪いんじゃない?」
「分かった。指紋認証は謎が解けたが、自販機でアップルウーロンソーダを押しながら世界征服の4文字を呟く、というおよそありえないシチュエーションがエマージェンシーコードだと知っていたのはなぜで、なぜこのタイミングで起動させたかが知りたい」
「えっ…偶然」
今までの軽快なやりとりが嘘のように静まり返った。
沈黙を破ったのはロンと呼ばれたコアラグマのブフーッという吹き出し音だった。
「ウ~ケ~ル~!この女天然だ天然!ぶひゃひゃひゃひゃ!」
「はっ?!何よ!自分も天然みたいな顔してるくせに!」
「マジキュル…天然女子見つけたキュ…」
ウィルはコアラグマ側に付いた。
紅穂は救いを求めてJを見る。
Jは眉間に寄った皴を揉み解すのに懸命なようだった。
「Jショックだもんなぁ」
ひとしきり笑った後、ロンが同情するように呟いた。
「偶然で起動するッキュン」
ウィルと呼ばれるクワッカワラビーが呟く。
良くは分からないが、偶然でなにか発動してしまったらしい。エマージェンシーというからには、滅多にないことなんだろう。日常会話で使わない単語だし。でもなんか嫌だ。これから先、自販機で買い物する度にビビっちゃう。
「フフフフフ」
どこから出るのか、渋い声でJが自嘲気味に低く笑った。
「まあいい。どのみち状況は膠着状態だったから、これがあるいは何かの天啓かもしれん」
「おで、Jのそういう前向きなところ好きだ~」
「尊敬するッキュ」
三匹は何故か薄っすら分かり合っている。
「ねえ」
「そっちチームで分かり合ってるのはいいけど、あたしにも状況を教えてくれない?」
Jは穏やかな表情で、舌を口の端から出し、鼻の頭を一度舐めるようにして仕舞うと縦に一度頷いた。
「よかろう。ここではなんだから、場所を変えて話そう」
ロン、ウィル、紅穂、共に頷く。三匹と一人は一斉に立ち上がった。
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