12.


 ――あなたは、スタートラインを見失っているのではないですか?


 ――さあ、どう使うんでしょうかね、魔法?


「大和田くん、やっほー」


 安神さんからの言葉をぼんやり反芻していると、先輩に呼び止められた。

 生徒会室の前で、先輩はカイロで手を温めながらいつものノートを広げていた。実技専用に使っているノートは、あちこちに持ち歩いて勉強してきたのだろう、もう残り数ページしかない。


「今週末センター試験ですよ、実技やってて大丈夫なんですか」


「うん、ここまできたら演習よりも確認中心の時期だから。実技は息抜きにもなるしね」


 いいですけど、と呟いて、俺は先輩の隣の席にそっと腰掛ける。

 本当のところを言うと、実技の勉強をしているときの方が俺は嬉しい。一度取り掛かれば彼女の手は迷いなく世界を作り上げていき、そんな様子を見守っていると、自分まで体ごとその中に引き込まれていく。

 彼女が育てる花の芽の上から、彼女の楽しそうな顔を眺める。二人しか知らない世界が、いつか多くの人の心に感動を咲かせるのかもしれない。そう思うと、彼女と、彼女の生み出す作品と、それに付随する物すべてに、愛しさを覚える。


「あ、先輩! 頑張ってください」


 二人同時に紙の上の世界から浮上すると、女子が二人、手を振り歩いていくところだった。先輩はにこやかに「ありがとね」と手を振り返した。


「あの人、二年生ですよね。確か隣のクラス」


「そうなの? あの子、入部した頃は下手だったんだけどね、いつの間にかかなり上達して、この前びっくりしたんだよね。確かにいつも真面目に取り組む子だったけど」


 きっと、成長のタイミングだったのかな。


「成長のタイミングって、真面目にやり続けないと掴めないんだな、って最近思う。私ね、勉強もそうだけど、実技だって、限界を感じたこともいっぱいあったんだ。あるときはがむしゃらに色んな作品に触れて、あるときはレッスンの先生に根掘り葉掘り尋ねて、それでももう無理って何回も思いながら、次の成長を掴もうともがき続けた」


「なんか、そんな漫画ありましたね」


「というか、漫画が現実の模倣なんじゃない?」


 そうかもしれないですね、と笑いながら、心の中ではドロドロとしたものが流れていた。蓮の無邪気な笑顔が、カメラロールのようにいくつも脳内に再生される。


 どんなに頑張っても越えられない壁はある。神に愛された人間が努力をすれば、普通の人間は自分の努力がバカバカしく思えてしまう。

 表現の世界は特にそれが顕著で、常人の行きつけない世界を、天才は易々と発掘して、無邪気に眼前に突き出してくる。それを俺たちはただ黙って、あるいは空っぽな笑みを浮かべて、傍観するしかない。


 突発的に、突きつけたくなった。


 先輩、芸術ってそんな世界なんですよ。


 確かに先輩にはセンスがあると思う。だけど、これくらいの才能なら持っている人はいくらでもいるんじゃないだろうか。幼少期から神童と呼ばれたモーツァルト、九歳で非凡な絵を描きあげたピカソ。芸術っていうのは、そういう世界なんだ――。


「ねえ、大和田くんのお母さんは、芸大に入ってからどうなったの?」


「え?」


 質問をしてきたのに、先輩の目は、廊下のずっと向こう側を見つめていた。かつての卒業生が描いた北国の湿原の絵を見ているのか、あるいは壁の向こうに広がる冬空を見ようとしているのか。


「母は、結局そっちの方面では芽が出なくて、教師になりました。それから職場で父と出会って、あ、最近また仕事を再開しましたけど」


「両親が先生なのか。だから大和田くん、教えるの上手いんだね」


「いえ、そんなことは」


 ふと先輩の右手を見て、俺は言葉を切った。カイロの上に乗せた手に、クリアブルーのペンが強く握り締められている。


「私ね、これでも不安なんだ。本当は全く才能が無いのかもしれない。もしあっても、他の人たちには届かないのかもしれない。

 高校から専門のコースに行ったりしてたら、自分の実力が分かったかもしれないし、色んなことを深く学べたかもしれない。仮に芸大に入学できても、私は落ちこぼれちゃうかもしれない。夢が破れるのが怖い」


 ――前に、本当にたくさんの人から作品を褒めてもらう機会があってね、それが忘れられないんだ。私は世の中のもっと多くの人に、自分の作品を楽しんでもらいたい。


 以前、先輩はそんな夢を語っていた。

 受験という大事な日が近づいている。だけど、それすらも通過点に過ぎないということを、先輩はちゃんと理解している。その先こそが本当に恐ろしい日々だということを、分かっていながら、どうにもできないでいる。


「クラスでも、家でも、先生にも、そんな不安が見せられなくて。だって自分で勝手に選んだ道だし、クラスのみんなもそれぞれに頑張ってるし。友達も忙しくて余計な心配かけられないし。何より、私の大切な夢だから、どうなるかが怖くて」


 夢だとか、目標だとか、未来だとか。


 みんな、本当は不安で。


「先輩」


 そして、そうやって、わざわざ引き止めたのに。


「今は試験勉強、頑張りましょう。後のことはそれからです」


 俺は、先輩と反対側にある窓からちらつく雪を眺めて、そう言っていた。


 最低だ、と思った。


 冷たい窓に映る先輩が頷いた。一緒に映る自分の情けない顔に、最低だ、と再び思った。


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