食卓
私がキッチンに入ろうとしたタイミングで、
「おじさん、お帰り」
「ただいま。今日の晩御飯は?」
「冷しゃぶ。じめじめしてるし、さっぱりでちょうどいいよね」
いいねえ、と嬉しそうに言って、彼はスーツを脱ぎに行った。
キッチンへのドアを開けると、おばさんは換気扇を消して、味噌汁を運んでいる。私はテーブルの冷しゃぶにごまだれをかけていく。黄金色が、豚肉とレタス、ピーマン、トマトという至高の組み合わせに彩りを加える。
おばさんがエプロンを外して、おじさんがスーツを脱いで戻ってきて、私がご飯をよそうと三人の食卓が成立する。
おじさんがテレビをつけると、対照的な二人のイケメンが映し出された。片方のやんちゃ坊主みたいなのは、確かなんとかいういかつい名前のアイドルで、もう一人の子犬みたいなあどけない顔の男の子は……ああ、今人気のフィギュアスケートの人だっけ。高校生で、名前は幸村蓮? だっけ?
おじさんは気にせず、チャンネルを野球中継に合わせ、応援団のラッパの音が耳に突き刺さってきた。
実況の声や、観客の歓声、応援の音。
それは私のかつての食卓には存在しなかった音声だけど、もう慣れてきていることに気付く。
「さやかちゃん、大会いつだっけ」
おじさんが、ふと問いかけてくる。
「うん、七月の第三週、で合ってるかな」
箸で掴んだトマトは、半月型に切られている。冷しゃぶのとき、お母さんのトマトはいつもくし形切りで、小さい頃の私は箸で上手く取れずに直接手で取ろうとした。やめなさい、とお母さんは苦笑いでたしなめていた。
「第三週か。仕事なかったっけな」
だけど、口に入れると、同じ瑞々しい味。
「あなた、どうせなら一緒に行かない?」
「まあなあ。せっかくの晴れ舞台、観に行ってあげたいよな」
「決まり。さやかちゃん、私たち応援に行ってあげるから」
おじさんは、おいおい、と言いながら、だけど笑ってビールを口に含む。
「うん、ありがとう」
おばさんのセリフ、「私たち」というところに力が入ったように思ったのは、考え過ぎだろうか。
みのりを、あなたのお母さんを連れていくからね、って。
お母さんが死んで、もう三か月だ。早かったような、そうでもないような。なんというか、日常を積み重ねていたら、ここまで辿り着いていた。
卵焼きを食べる。見た目は同じで、だけどお母さんより薄めの味つけ。
テレビが何やら盛り上がっている。おじさんが歓声を上げながら画面に見入っている。
私も画面を見てみると、どうやら七回に、おじさんのひいきのチームが逆転のチャンスを迎えているようだ。野球なんてさっぱりわからなかったけど、最近少しだけ、ルールとかテレビ画面の表示とかがわかってきた。
もうすぐ三か月なのか、と改めて思う。
あれからの生活は、たくさんの変化とセットだったはずだ。だけど人間は意外と、それを自然に受け入れられるらしい。受け入れないとしょうがない、という部分もあるだろうけど、食卓の風景も、家の音も、料理の味も、気付かないうちに、慣れていく。
人間は、いつまでも立ち止まってはいられない生き物だから、それでいい。バーは、越えるためにあるから。
だからこそ、思う。
ちゅるっ。
湯気が立っている。褐色の液体の中に細いそばが浮かんでいる。
発泡スチロールの容器は、普通の食卓にあって一つだけ異様に映る。
なんで、カップ麺だけは離せないんだろう。
そう思っていると、視界の片隅でおじさんやおばさんの髪の毛がうねり出すように見えて、やめてよ、とこっそり息をつく。
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