おばさん


 窓ガラスの上を滑る雨粒を見ていると、部屋のドアがノックされる音を聞く。慌ててペンを握り、はい、と答えて迎え入れる。


「さやかちゃん、順調?」


 春枝はるえおばさんが、お茶の入った湯呑を机の端に置いてくれる。私は顔だけ向けて、ありがとう、と微笑む。


「この前試験あったばかりなのに、また試験あるんだね」


「前は中間だったけど、今回は校内模試だから、ちょっとイレギュラーだよ」


「へえ。二年生から大変なのね」


 労いの言葉を伝えて彼女が部屋を出ると、私は湯呑を手に取る。今日は少し肌寒い日だから、あったかいほうじ茶のほのかな甘味が、疲れた頭に安らぎを与える。


 去年の夏、シングルマザーだった母親を亡くしてから、私は親戚であるこの相内あいうち家にお世話になっている。


 あまりに突然訪れた死だったので、きょうだいもいない私はうろたえていた。そこに声をかけてくれたのがおばさんだった。

 おばさんは母親の唯一の姉妹で、相内夫妻には元々子供がいなかったからか、幸いにも喜んで受け入れてもらえた。学校は変わったけれど、陸上部さえあれば別にいいと思っていたから、転校自体はそこまで気にならなかった。


 椅子に座って、もう一度ほうじ茶を口に含む。温かい。美味しい。


 正直に言えば、生活は少し楽になった、と思う。おばさんもおじさんも優しいし、お小遣いもお母さんと暮らしていた頃よりかは多めに貰えている。部屋も与えてくれたし、勉強も適度に応援してくれるし、マイナス面はない。


 すごく前向きな、あるいはさばさばした言い方をすれば、運がいいのかもしれない。


 視界の片隅に、空が光るのが見えた。あの部活を切り上げた日から、今日で三日連続の雨。部活もずっと筋トレくらいしかできていなくて、憂鬱だ。

 そう思っていると雷の轟音が聞こえ出す。音の速さの式に代入して、十キロくらいかな、と予想を立てる。停電だけはやめてほしいな、と思う。


 机の上には、物理の問題集が開いている。校内模試なんか、つまりは実力テストだから何が出るかわかったもんじゃない。とにかく苦手を潰さないとな、と各教科何箇所かピックアップしながら勉強している。途中で投げ出そうとしていたモーメントの問題に、再び取り掛かる。


 支点、力点、作用点。


 小学校の理科の授業で呪文のように覚えたそれは、いつの間にか数式や公式という別の呪文に必要な要素になっている。昔やっていたRPGにあった、いくつかの基本的な呪文を合体させると、一つの超強力な呪文を唱えられるようになる、そんな感じ。


 支えとなる点、つまり回転の軸をセットする。力を加える、つまり矢印を書く。作用が働き、物体は円弧を描きながら動く。


 物理をやっていると、高跳びに使えるかも、と思うことがたまにある。その割に問題は解けないけれど、本を読むのが好きな子も現代文が得意って訳でもないから、それと同じような話だとしておきたい。

 ただ、高跳びでは宙にいるときに、こんな風に自分の体を回転させる力なんて働かないから、ちょっと違うのかな。前に習った斜方投射、つまりボール投げの話も、役に立つようなそうでないような微妙な所だった。もう少し物理の勉強が進むと、円運動なんてことをやるって先生が言っていたから、それは本当に高跳びと関係しているのかもしれない。


 雷が近づいてきている。雨は降り続ける。

 早く、跳びたい。

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