私に魔法は使えない


「クラリネット、そこのメロディーはもっと歌って」


 はい、と私から見て左側に陣取るクラリネットの集団が声を揃えた。


 日曜日になって、ようやく音楽室が使える。今日は午後丸々使えるから、ということで合奏の時間を長く取っている。


「ちょっとちょっとドラム、ずれてるずれてる」


 ドラムの男の子が苦笑して頭を掻く。


 今は三月後半にある定期演奏会に向けて練習している。

 その演奏会はコンクールと並ぶ私たちの二大行事の一つで、かつ私の最後の舞台だ。三年のコンクールまで出るという人も稀にいるが、受験勉強のために、大抵はそこで引退となってしまう。理系教科が苦手な私も、その例には漏れない。


「あっ」


 曲を導いていた私の右腕が、突然止まる。

 一小節読み間違えて指示がずれていた。

 青ざめそうになりながら見渡すと、みんなが心配そうに見上げたり、ニヤッと笑っていたり。


「ごーめーんー、ごめんねー」


 なんとかふんばって、ふざけた調子で言うと全体に笑顔が生まれる。


「ごめんなさい、もう一回、曲の頭から」


 こんな頼りない私なのに。私がか細い棒を構えると、みんなはさっと楽器を構えてくれる。棒の先が動き始めると、見えない糸で引っ張られるかのように音がついてくる。

 私は、人形使いのような気持ちで、頭も両手も両脚も動きを揃えてあげないといけない。


「トロンボーン、和音乱れてる」


「フルート、もっと音量出してね」


 いつもは仲の良い仲間たちなのに、この場所に来ると私はみんなに注文をつけないといけない。対等な仲間のはずなのに、一人対みんなの構図になって、言いようのない孤独感を味わい続ける。


 あれ?


 私の動き続けていた手が止まる。


「ちょっとごめん」


 曲を止めてスコアを睨む。今止めた所、私は一気に音量を上げればいいと指示していた


 一方で、みんなは徐々に上げようとしていて、それが悪くないと思えたからだ。

 だけど私の考えも捨てがたい。この前後ってどうなってたっけ。あ、いっそテンポを少しずつ変えても面白いかもしれない。だけどそうなると、二小節後とつじつまが合わない気がするし。


 どうしよう。


 一度考え始めると、がんじがらめになってしまう。

 本番が近い、もう時間は少ないというプレッシャーがそれに拍車をかける。どうしよう、どうすればいいんだろう。


 だけど、今私の前には六角形の鉛筆はない。私は一人きり。


 神様。




「私は一気に音量上げた方がいいと思う」


 低く落ち着き払った声が、右耳に届いた。杏が自分の楽譜を見ながらシミュレーションするように指を動かして、一つ頷いて私を見た。


「奈穂、私もそう思う」


 クラリネットの一番端、副部長の亜純あずみも言った。さっぱりとした、自信に満ちた声で。


 今日も、助けられた。


「うん、ありがとう。じゃあそういう方針で」


 はい、というみんなの声がいつも以上に明るい。そこで初めて、私は自分の声が少し震えていたことに気付く。


 今日も、気を使わせた。


 そのまま合奏を続け、最後に一度曲を通すと、私は指揮棒を下ろして言う。


「じゃあ十五分休憩。その後は卒業式用の曲やります」


 場の空気が緩み、雑談や個人練習が始まって音楽室はカオスな空間になる。私は指揮台からぴょんと下りて、スタスタと出入り口へ向かう。口は、開かないようにして。


 ドアを開けて、廊下を真っ直ぐ歩いて、階段を何段か下りると、私は目に溜まった涙を拭きながらしゃがみこんだ。


 どうして。


 ずっと喉元で止めていた言葉が、頭の中でリフレインする。


 どうして、いつまでたっても私は上手く指揮ができないの。


 どうして、いつまでたっても私は一人じゃ何も決められないの。


 階段を通り抜ける風が寒い。目頭だけが熱くて、上着も無くブレザーとスカートという格好の私は震えている。


 コンクールの前も、文化祭の前も、私はこうだった。


 いつも一人でテンパって、それでみんなを困らせて。私もみんなも下手くそで、だからみんなを束ねる者として、最高の音楽へ導いてあげたくて。

 だけどいつも、ふとしたときに迷ってしまう。そして毎回、本番までに曲が完成し切らずに、なあなあで終わってしまう。




 当たり前じゃん。自分がそんな器用な人間だと思ってたの?




 冷たい階段に、私は指揮棒を投げ出してしまう。指揮者としてあるまじきことだ。どうせ私は指揮者失格だから、という言い訳を、自分の中で何層にも重ねる。


 投げ出した指揮棒は、ころころと転がって、踊り場の壁に当たって止まる。指揮棒の手で握る部分のコルクは、丸みを帯びている。そこから伸びる白くて先のとがった樹脂は、つるつるしている。つるつるの廊下では、よく転がる。


 そう、私の指揮棒は、転がる。

 だけど角がないから、答えを出さない。


 結局私は、何一つみんなに答えを与えることができなかった。

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