杏の音
ガララッという音が聞こえて、私は慌てて紙を裏返す。
「あったかー。あれ、
背中に楽器ケースを背負った
「よいしょっと。ああ、肩凝ってる。年かな」
まだ十七だよ、だけどさあ。背を向けて眼鏡の曇りを吹く隙に、私は机の下に置いていたフルスコアとさっきの紙を入れ替える。
チューバは
「スコア読んでるの?順調?」
彼女はいつの間にか、背伸びをするようにして私の手元を見ていた。私と同じくらいの背丈だから、恐らくこの長机の下は見えない。
「うん、まあね。この前の合奏で保留にしたところ、ちゃんと決めないと」
「そうだね。で、それもいいけど、アンコール曲決めた?」
「ああ、うん。ごめん、もうちょっと待って」
頼むよー私忙しいし、と言って彼女はポケットからマウスピースを取り出し、唇に当てて低い音を鳴らし始める。年度頭に買ったマウスピースは、この一年で少しくすんできているけど、部屋の灯りを弾く、金色。
今度の演奏会でやる曲のスコアを眺める私、その耳に届く杏の音は、いつだって落ち着いていてホッとする。背の低い彼女は、だけど中学時代には上手い学校でやっていたおかげで、一番頼りになる奏者だ。
続々と部員が部屋に入ってくる。
トランペットとホルンの一年生女子コンビ、トロンボーンの同級生男子二人、物理科の先生が一瞬入ってきて、探し物をして、謎のガラス管を持って部屋から出ていく。その間に部屋にはみんな揃っていて、金管楽器の音と、金めっきの輝きが辺りに満ちていた。
金管楽器の冬場の練習場所であるここは、はっきり言ってかなりうるさい。
金管楽器は吹奏楽の中でも特によく鳴る楽器が揃っている。どの楽器も、一つでピアノの三倍、いやもっと音量が出るかもしれない。
横は物理科の教員部屋なのだが、顧問が物理の先生だから、寒い時期だけ、というありがたい配慮だ。
突然、ぷああ、と気の抜けるような音がした。
「かなちゃん、音の出だし、また震えてる」
かなちゃんこと一年生のホルンの香菜子ちゃんが、はい、と暖房の音に消えそうな声で答えた。黙々とチューバを吹いていた杏は、それだけ伝えると、ウォーミングアップ用の譜面を吹き始める。
私の入っている吹奏楽部は、正直下手くそだ。
毎年夏に行われるコンクール、私たちはそこでほぼ毎年「銅賞」という名の実質参加賞をいただいている。
せめてちゃんとした顧問の先生を……と思っても、毎年、事務関係だけ行ってくれる顧問しかつかない。予算もつかない。演奏会や行事で演奏する曲すら、選曲からほぼ全て自分たちでなんとかする。
そんな状況だから、肝心の音楽室は合唱部と交代制で、合奏の練習をするときにしか使わせてもらえない(音楽の先生が合唱部顧問だから、という政治的影響もたぶん……。)
クラリネットなどの木管楽器は、もはや授業でも使われていない地学実験室で練習していて、打楽器は音楽準備室という四畳ほどの狭い部屋でリズムを刻み続けている。
「じゃあ、パー練するよー」
杏の一声で部屋は一気に静まり返り、好き勝手な場所で練習していた奏者たちはそれぞれの楽器ごとで固まる。パー練、つまりパートごとでまとまっての練習の時間だ。今日の杏はトランペットの練習に顔を覗かせる。
杏は部長で、金管楽器のまとめ役も兼任している。普段はクールな感じなのに、生徒会長もしているだけあって、統率力はあって人望も厚い。下手くそな部だと言っても、そんな彼女の下で過ごせている私たちは、幸福なのかもしれない。
パー練が始まると、一本一本だった音が繋がっていく。私はこの瞬間につい耳を傾けてしまう。音程が合わなくて邪魔し合ったり、音色が合わなくてぎざぎざとした音が出ても、一本きりの寂しい音楽よりずっと安心できる。
楽器の音、メトロノームのかちかち、意見を伝え合う声。
それぞれのパートで繰り広げられる音は、足し算をするとその時限りの予測できない音楽になる。それを逃すのは名残惜しくて、だけど私にだって仕事はあるから、目の前のおたまじゃくしの集団、つまりフルスコアと格闘する。
スコアを眺めるのが好きだ。
そこには全ての楽器の動きが書いていて、このパートがメロディーで、そのパートが伸ばして、あのパートがリズムを打って、それが組み合わさると一つの絵画みたいになる。
作曲が上手い人のスコアはそれだけで一つの芸術のようだ、という人もいて、私も深く納得する。上手なスコアは見ても聞いても楽しい。指揮を振ってもやりがいがある。
私は今、ずっと吹いていたサックスをお休みして、この部活で唯一の指揮者をしている。
指揮者って、普通は顧問じゃないの?と思うかもしれないけど、理由はさっき言った通り。簡単なポップスとかは副部長の
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