第5話 地平線4

 エリオットに再び、滞在を伸ばしてください、と引き留められた。私は丁重に辞退する。「(あなたにとって)あなたの職場はどんなところですか?」エリオットが微笑んで言った。私は、ジェームズとは似ていない細身で中背の彼を少し見上げる。「私には、とても首が疲れる職場です」と笑って答え、今度はジェレミーを見た。エリオットは品の良い笑い声を上げる。「全従業員の中で、私が一番背が低いんですよ。生まれ故郷では平均的なのですけど」彼は、私の生国を尋ねなかった。

 元軍人で実業家のエリオットは、当社に興味を持って当たり前だ。私が年若い女であると侮って、当社の情報を引き出そうとしても不思議はない。だが、私に敬意を払ったうえでの、純粋に社交的な会話だと思う。ジェームズの兄は2人とも、おおらかで紳士的で良い人だった。私も名残り惜しくなり、もう一泊くらいしたいと思えてきた。(まぁ、無理だったんだけど)


 空港へ向かう車内で、カバンからハンカチを取り出して顔の間近で握りしめる。運転するジェレミーが私の様子を横目で見て、けげんな顔になった。「おまえ、それ、ヤンのハンカチだよな。…おまえが花柄のモン持ってないのは知ってるが…どう考えてもそんな地味なヤツは男物だ。Tシャツと言い…うんー?ひょっとして匂いを嗅いでんのか?」「アハッ、わかっちゃった?」「おまえの男、香水つけてないよな。じゃ、ウチのランドリーで使ってる洗剤やなんかの匂いしかしねえだろ?タバコ吸ってるやつは、持ち物着る物全部タバコが臭うが」ウチの社員には喫煙者は少ない。特にメインメンバーは全員吸わない。(私がしてきた当社が直接請負った仕事を考えたら…火と煙にニオイ…"ここに人が居ますよ"と宣伝しているような社員は必要ありません!)

 「えへへ、私はヤン自身の匂いが好きなんだ」「あいつは日本人以上に臭わんだろうが。それでもわかるのか?」「うん。男性同士じゃわかんないと思うけど」「いや、たぶん女の中でも判別できるのおまえだけだと思うぞ?おまえ、犬並みだな」「あはは!フブキに好かれるわけだ」「日本から来たばかりの頃は、キツかったんじゃねえ?」「あはは、正直言うと、慣れるまで大変だった。正直ついでに言えば、今でも格闘技場は苦手ー」「わっはっは!野郎同士だって臭えもんは臭え。…なんとかならんもんかな」「なんだ、皆んなは平気なのかと思ってた。帰ったらアンナに相談してみるよ」「おう」


 しばらく楽しい会話が続いたが、ジェレミーが少しの間黙った。それから「おまえの男も、壮絶な子ども時代だったんだろうな」と言った。「…愛されて育った幸せな子どもだったんじゃねえのは、誰でも見りゃわかる…この一年でだいぶ変わったが。おまえの辛抱強さと想いの強さのなせるワザだ」「ありがと」私は遠くを見て言った。サングラスをかけていたので、ジェレミーには私の表情ははっきりわからなかっただろう。目を悪くして以来、ますます日光に弱くなっていた。晴れの雪景色では裸眼でいられない。

 私は話題を変えようとしたわけではなかったが、この旅でもう一つ気になっていた事を尋ねた。「あのね、立ち入った事だけど…奥さんのお墓参りには行かないつもりだったの?」ジェレミーの妻、マーガレットの墓はロンドン近郊にあるらしいが、この旅では往復ともスコットランドの空港を使う便を予約していた。「…女房は今、俺の孫になって側に居る。つまり墓は空っぽだ、ろ?俺にはそうとしか思えん」彼は微笑んで答えた。私は『だけど、墓にはマーガレットのエネルギーが残ってる。ジェームズの埋葬式のように、彼女が現れるとかも』という言葉を飲み込んだ。ジェレミー自身の選択だ、私が口を挟む事ではない。私は「うん」と頷くだけだった。

 私は、ちょっとわざとらしくはにかんだ声を出して「あのね、良かったら奥さんとの馴れ初めを聴かせてもらえる?」と言った。「うん?…そうだなぁ」ジェレミーは、やはりかけているサングラスの奥で、私と同じく遠くを見ている。

 マーガレットはその娘と同じく天才で、学校の単位をあっと言う間に取得し、出席日数を稼ぐために得意のフルートで病院や保養施設などを慰問してまわっていたと言う(この国ではボランティア活動でも出席扱いになるんだね)。

 「俺は訓練中の事故で怪我しちまって」入院していた病院に、ある日マーガレットが来たそうだ。「…一目惚れだった。俺はそれまで、普通の家で育った普通の女の子に会う事がなかったんだ」彼の知る女性は、ストリートギャングの女子か、施設に保護された女子。大人の女性も役所の人か、修道女。入隊してからは事務員や看護師、それも数少ない、に会うくらいだったと。

 演奏を終えて帰ろうとするマーガレットを追いかけ、「俺は折れた腕の痛てえのも忘れて、彼女のためにドアを開けた」。たった今初めて自分の腕が折れているのに気づいた、とでも言うような顔をした彼に、彼女は一瞬驚いて、朗らかな笑い声を上げたそうだ。「俺はその時、この笑い声を聴くためなら何でもやる、と思った…」

 「ジェレミーみたいな凄い男前がそんなお茶目な事したら…印象深いどころじゃないよね?」「わっはっは!でも間抜けな事して良かったぜ。女房はそれで俺が忘れなくなったと、結婚してから言っていた」ジェレミーは少しだけ悲しみが混じる声で言った。

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