エピローグ
戻った世界で
柔らかくて、暖かい。
鳥の鳴き声と、新緑の香り。
陽だまりの中で、目を覚ました。
「帰って……来たんだな」
スイの部屋か。十年は経っているだろうけど、あまり変わらないな。
自分の様子は、あの日の、建設時に着ていた作業服。体も、あの時と同じ。
魔法の使えない、普通の体。
その時、扉が開いた。
「ミチコ……」
何気なく開けた部屋に、いなくなった夫を見つけたから、さぞかし驚いているんだ。
しかし何から話そう。
少し老けたな。そんなデリカシーに欠けた言葉を思いつくが、もちろん言わない。
そうだ、スイの事を話さなくては。けど、それも違う気がした。
自分の今までの話?いや、それよりも先に、まずは。
「ただいま」
――――――――――
スイが行方不明になってから二ヶ月が経っていた。
世間では神隠しだと話題になったが、夫のミチルに続いて、長男のスイムまで失ったミチコの不幸を気遣い、近隣の住民はあまり騒ぎ立てなかった。
スイは元々無口であったが、それに関わらず、ミチコとマサの生活は一層静かになって。
マサは当然寂しがったが、ミチコは母の強さで気丈に振る舞い。
それでもやはり、一人になった時には弱くなってしまう。
マサが学校に行ってる間、ミチコは毎日スイの部屋を掃除している。
いつでも帰っておいで。あなたの居場所はここにある。
そんな願いを込めて、その日もスイの部屋のドアを開けた。
そして再会を果たしたのは、最愛の夫。
夢を見ているのかと思った。
自分はどこかおかしくなってしまったのかとも思って。
ならばそれでいい。それでいいから、どうか夢よ覚めないで下さい。
ミチコは夢が覚めないように、慎重に部屋に入ろうとする。
消えないで。どうか、ずっとそこに居て。
そんなミチコの願いに応えるように、彼は言った。
「ただいま」
夢でも幻覚でもないミチルに、ミチコは抱きついた。
スイが帰ってこない事を聞いても「やっぱり」と納得できた。
寂しい気持ちは強くある。
それでもミチルが、あまりにも楽しそうにスイの話をするものだから、スイも今幸せに暮らしているのだとよく理解出来た。
そしてそれはマサも同じだった。
マサが強い子だというのも理由であるが、殆ど記憶に残っていない父が帰って来た事も、寂寥感を紛らわす結果になった。
ミチルは空白の十年間を取り戻す様に、沢山マサと遊び、ミチコと語り、身体の検査が終わってからは目を見張るほど働いた。
あまり無理をしないで、というミチコに帰ってくるのは、「俺の体は老けていないんだ。ミチコよりも全然元気さ」という軽口。
変わらない強さだ、とミチコは思う。
寧ろ十年前よりもずっと強いかもしれない。
そんなミチルを、マサもミチコも大好きだったが、二人が一番好きな話は、未だ俄かに信じ難いけど、ミチルの冒険、それから、スイの英雄譚。
「世界を救うのも嫌だ。魔物を倒すのも怠い。何もかもめんどっちぃ。そんな事ばかり愚痴る勇者についたあだ名は――」
スイらしい。面倒くさがりながらもキチンと正義を貫く。その言動が間違いなく自分の息子だと感じて、そんな息子の晴れ姿を想像すると、とても誇らしい気持ちになる。微笑むミチコと、目を輝かせて先を促すマサに、ミチルは続ける。
「――怠惰な勇者」
――――――――――
ミチルは正直くたびれていた。
家族に出会えた事は喜ばしいのだが、十年間行方不明だった人間が、その時と変わらぬ姿で発見されたのだ。当然様々な捜査、検査の時間がミチルを待っていた。どこから嗅ぎつけたのか、記者を名乗る人達もたくさん押し掛けて来た。
しかし一貫して記憶が無いと主張するミチル。身体に異常は無いのだし、失くしていた日常を謳歌させてくれ。
そんなミチルの悲壮感を誘う様な言葉は、民衆の心を打ち、周囲の人々の協力もあって、少しずつ平穏を取り戻していく。
ようやく落ち着いて来た。
息をつくために、ミチルはゆっくり歩いている。
別の世界にいた時はもっと早く歩けた。でも、今だって体が重いとは感じない。
幸せだ。
独り立ちには少し早い年齢だが、スイの旅立ちを見送った自分達は、これから家族三人で日々を紡いでいく。
いや、違うな。
離れていたって家族だ。
スイだけじゃ無い。
マオの事だって、それどころか、仲間のみんなのことを、ミチコもマサも知っているんだ。これを家族と呼ばずになんと呼ぶ?
ふと、足を止めた。
かつて己の命が危機に晒されたダムのほとりで。
穏やかに流れる下流に向かっていたミチルは、後ろを振り返る。
その時。
水面に何かが叩きつけられた様な大きな音と、小さい物が作り出す水飛沫。
まさか。
わからないけど、それは自分が拾わないといけない。そんな気がして。
浮かび上がってこちらに流れてくる瓶を、手を伸ばして掴み取る。
震える手で開こうとして、やめた。
急いで家に帰る。
ミチコとマサを呼び、机の上で瓶を開ける。
入っていたのは二枚の紙。
一つは手紙と、もう一つは、絵だ。
「あぁ……スイ……」
その絵に描かれているのは、まるで家族を集めた様な集合写真。
共に戦った仲間達が肩を寄せ合っている。
「あ!これが兄ちゃんだね。格好良くなってるけど、目が変わってないね」
マサが指差したのは絵の中央、眠そうな目で正面を見つめるスイ。
「この隣の女の子が、スイの……?」
ミチコが指差したのはスイの隣、紅い瞳を細めて優しく笑っているマオ。
「本当に、幸せそうね……」
ミチコの呟きに何度も頷きながら、ミチルは手紙を広げた。
永遠に残る、大切な宝物を。
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