第8話:そして先生になる
いつの間に眠っていたのだろう、外から差し込んでくる朝日で目が覚めた。
そして、お腹が空いていると言う事に数日ぶりに気がついたのは、溜まっていた感情を涙と共に吐き出したからかもしれない。
昨日、エリシアが置いて行った食事に手を付けようとすると、誰かが扉をノックする音が響いた。
「失礼いたします」
淡いグリーンのワンピースを着た白金色の髪の少女が、朝に似つかわしい清々しい声で入ってくる。
一瞬誰か分からなかったが、その声の音色に、数日前に学院に案内した少女を思い出していた。
「えっと、クロエさん、でしたっけ?」
「はい。クロエ・ブランシュでございます。その節はお世話になりましたのに、お礼も申し上げず、申し訳ございませんでした」
クロエは優雅に頭を下げると、先日の件について謝罪をしてきた。
「あ、いえ、途中で消えてしまったのは、自分の方ですから」
いたたまれなくなり逃げ出した自分を思い出して、急に気恥ずかしくなる。
「あら、お食事中でしたかしら、失礼いたしました。それでしたら、また後程――」
食事に手を付けようとしていた事に気付くと、クロエは自分の部屋へ戻ろうとする。
「ああ、大丈夫ですよ。食べようと思いましたが、冷めちゃってるので後で温めに行きます」
実際、食事は後でもよかったし、温めた方が美味しいだろう。
しかし、クロエを引き留めた一番の理由は、もう少し彼女を見ていたかったからだった。
疲れた心に彼女の声と姿は、何故か自分を癒してくれるような気がしていた。
「それでしたら、お言葉に甘えまして」
クロエは少し嬉しそうな声で答えると、僕が勧めた椅子へ静かに腰を落ち着かせる。
「本日は学院について、お話に参りましたの」
僕がベッドの淵に座るのを確認してから、クロエは話を始めた。
「サイモン様より、お伺いしていると存じますが、わたくしは、まだ学院で魔術を勉強したいのでございます」
「他の生徒みたいに、クロエさんは何故帰らなかったんです? 学院も廃校になったのに、そこまでして残る理由があるんですか?」
クロエの言葉に、僕は単純に好奇心で尋ねてみる。
「父から『卒業するまで帰ってくるな』と言われておりますの。入学三日で帰ったら、叱られてしまいますわ」
縦ロールの巻き毛を可愛く揺らしながら、クロエは微笑んで見せる。
神が神託を与えに遣わした天使かと思う程にその微笑は眩しく、疲弊した僕の心を癒す様に染み込んでいく。
そして少しだけ真剣な表情に戻ると、
「わたくしは、社交界の与太話の為に、遠路はるばる来た訳ではございませんの」
と、少し棘を含む調子で付け加えた。貴族のお嬢様らしからぬ口ぶりである。
「何か、事情があるんですね」
クロエの真剣な言葉と表情に、ある種の覚悟の様な物を感じとった僕は、続く彼女の言葉を待つ。
「ええ。詳しくはお話しできませんが、全ては我がブランシュ家の為でございます。ですからデュラン様、是非わたくしの先生として、魔術のご教授を宜しくお願いいたししますわ」
クロエは一度立ち上がると、お手本のようなお辞儀をした。
余程厳しい躾を受けているのだろう、完璧な所作と年下とは思えぬ気迫に圧倒される。
「事情は、理解しました」
温和な表情の中に固い決意の眼差しを感じ取り、それ以上軽々しく聞く事は憚られた。
「あと、先生になる予定はありませんよ」
いつの間にか先生と言う話まで増えているので、念の為やんわり否定しておく。
しかし彼女は、僕の言葉を聞いて不思議そうに尋ねてきた。
「生徒は私だけですよね?」
「そうですね」
「じゃあ、私がデュラン様に先生をお願いしますよ?」
「私は魔術使えませんよ?」
「魔術を使えない方が先生だと、生徒は魔術を使えないんですか?」
「……」
貴族と言うのは、交渉術も授業科目にあるのだろうか。
クロエはぐうの音も出ない僕を見ながら、一歩も譲る気がない雰囲気を醸しつつ、にこにこと微笑んでいる。
「僕が、『出涸らし』と言われているのはご存知ですか?」
それでも先生など出来るとは思えない僕は、最も嫌いな言葉を自ら口にして拒否の壁を張り巡らした。
「ええ。でもその様なこと、デュラン様のお父様の言葉に比べれば些末なことですわ」
そして、あっさり破られた。
「父の、言葉?」
「『息子は魔術こそ使えないが、魔術に関する知識は私に匹敵する。分からない事があれば何でも聞けばよい』そう仰っておりましたの」
父がそんな事を言っていたとは。
もし、もっと話ができていれば、直接言ってくれる事もあったのだろうか。
思い出した瞬間、涙がこぼれ落ちそうになるのを必死で誤魔化した。
「それに」
クロエは、数日前の出来事を思い出しながら話を続ける。
「わたくしが学院に来た初日、デュラン様は私を案内された後、ある女の子に魔術を教えてらしたでしょう? その時の女の子の嬉しそうなお顔がとても印象に残りましたの。わたくしもあの様に楽しく学べたらと思いまして、是非デュラン様にご教授いただきたいと思っておりましたの」
あの日、クロエを案内して教室から逃げ出した後に魔術を教えた赤毛の少女を思い出す。
振り返った時の嬉しそうな顔。
あの時の少女のような顔を、クロエにもさせる事が出来るだろうか。
いや、させたい。
『出涸らし』を、些末な事と言ってくれた少女の為に。
僕の答えは既に出ていた。
「わかりました。教師として出来る限りの事をやります」
クロエを見つめて答える僕の表情は、ここ数日にはない穏やかなものになっていたらしい。
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