9-4
タクシーから降り、二人は連れ立って歩く。土手へ続くコンクリートの階段を上り切ってから、モモはかぶっていたフードを下ろした。
「ぷはっ。暑かった」
舌を出し、荒い息を吐く。その様は、まるっきり犬か猫のようだ。
「でも夜になって、だいぶ涼しくなっただろ?」
「んー。でもこっちの世界は、蒸し暑いな……」
タクシーの運転手から隠すために、フードの下に押し込めていた獣の耳を、モモはぴこぴこと小刻みに動かした。
「そうだ。これ、返す」
モモが突き出した拳を、大祐は手のひらで受け止めた。
「ん?」
モモの拳からは、指輪が出てきた。太くがっしりしたアームは黒光りする金属で出来ており、楕円形のトップには不思議な模様が刻まれている。この指輪は、大祐が異世界で初めて魔族を倒したとき、記念に相手から奪い取った、いわば戦利品のようなものだ。
「勝手に持っていって、ごめん」
「んー」
回り回って戻ってきた指輪を、大祐は無造作に指に嵌めた。
「そんなことより、なあ、本当に行くのか? なにも夜に行かなくたって……。また日を改めてさあ」
「善は急げって言うだろ。大祐の気が変わって、また家にこもり出したら困るからな!」
「信用ねーなー」
まあ、あっちへふらふら、こっちへふらふらと、大祐の前科が前科なだけに、モモが心配するのも分からなくはない。
「でも俺、明日仕事なんだけど」
「ハァ? いい加減、腹をくくって、魔王に専念しろ!」
「いや、会社に迷惑かかるし……。まあ辞めるは辞めるけど、しばらくは行ったり来たりするしかねーか」
「魔王を副業にしようとは、ほんっとーに不謹慎な奴だな!」
大祐は頭をかき、その横でモモは納得がいかないのか、ぷくっと頬を膨らませている。
大祐が魔王に復帰する。そう決まったあと、モモはどうしても「今すぐ自分の世界へ帰る」と駄々をこね、大祐は彼女に引っ張られるようにして、ここまで来たのだ。
二つの世界を繋ぐ、「異界の扉」。その扉は、どこにでも呼び出せるような代物ではない。魔力に満ちた場所でなければ不可能なのだ。
土手の砂利道を歩きながら、大祐は左方に見える大きな川を眺めた。
「『多魔川』か。確かにここら辺は、魔法の儀式をするのに申し分ないな……」
「そうだろう?」
ただ立っているだけでも、精霊の――もとい、八百万の神々の放つ魔力が、ひたひたと肌に迫ってくる。自宅からは離れているが、実は勤めている会社が近くにあって、大祐も「多魔川」のことはよく知っていた。
魔王の正体が誰か知らないまま、モモは先ほど大祐に返した指輪に導かれ、彼の会社の近くを監視していたそうだ。その結果、再会した二人は戦い、モモは傷を負った。瀕死の状態で彷徨っているうちに、モモは魔法使いの本能に引っ張られたのか、この「多魔川」を見つけたのだそうだ。
「確かに精霊はたくさんいるっぽいけど、でもよー、だからって休んでるだけでケガが治るか?」
モモはあのとき――大祐に魔法を跳ね返された際に、深手を負ったはずなのだ。だが今、彼女は元気いっぱいである。
精霊――八百万の神は、人に魔力を与えることはあっても、ケガを完治させるような能力は持っていない。
じゃあ、モモはどうやって回復したのか? 大祐が小柄なモモの頭頂部を見下ろすと、彼女はしどろもどろになりながら言い返した。
「き、気合いで治したんだ!」
いかにも怪しい。なぜかモモは、傷を癒やした方法や経緯を語りたくないらしい。
「まあ、いいけど」
大祐はモモを伴って、土手を下り、「多魔川」に近づいた。
外灯は遠い間隔でまばらにしか設置されておらず、辺りはかなり暗い。土手の終点に近いこともあって、人通りも絶えている。
暗夜の川べり――。
これから魔法を使うのだから、誰もいないほうが都合がいいのだが、お化けだとかなにか恐ろしいものでも出てきそうで、大祐は背筋が寒くなった。
「あそこがいい」
モモが指差す高架下へ、二人は向かった。
「異界の扉」の召喚方法を、大祐はすっかり忘れてしまっていた。だが最近それを使ったばかりのモモは、もちろん問題なく覚えているそうだ。
高架下には、真夏の昼の空気が溜まっていた。夜風が、淀んだそれを追い出す。
「暑……?」
乱された前髪を鬱陶しそうに整え、大祐はメガネの奥の目を見開いた。呪文を唱えようとしているモモを、手で制する。
「どうした?」
「しっ!」
なんだろう。なにか巨大なものが――。
異界から戻ってからすっかり縮んでしまい、ほとんど役目を果たさなくなっていた万能の精霊たちが、大祐の服の中で震えている。
「……?」
しばらく息を殺し、周りの様子を窺ったが、もうなにも感じない。
気のせいだったか。ふっと息をついた次の瞬間、いきなり背後に気配を感じた。
大祐は血相を変え、振り返る。
――いつの間にか後ろに、背の高い男が立っていた。
「ひっ……!」
近づいてくる足音も聞こえず、なんの兆しもなかったはずだ。
隣のモモも、悲鳴を上げた。人間より聴覚や嗅覚の優れた獣人である彼女も、男に全く気づかなかったようだ。
夜空を背負って立っている男には、表情がない。
浅黒い肌に銀色の髪、虚ろな青い瞳。
「黒き魔導師……!」
大祐が呼んでも、男は――イズーは反応しない。
イズーは機械仕掛けの人形のようにゆっくり首を動かすと、モモのほうを向いた。
「野良猫。お前が必要だ。元の世界に戻るために」
「イズー……様……」
異様な迫力に気圧され、モモは立ちすくんでいる。大祐だって怖い。
なんだこの、不気味な雰囲気は。前に会ったときの『黒き魔導師』は、確かに変わってはいたが、もうちょっと気さくな男だったのに。
イズーの長い指先が、モモに触れようとする。
「やめろ! そいつに触るな!」
金縛りにあったかのように凍りついた体を、大祐はなんとか動かし、イズーに体当たりした。が、なにかに阻まれて跳ね返され、尻もちをつく。
「いってえ! 魔法障壁かよ……!」
「お前……。前に、風吹と一緒にいた男だな」
イズーは汚いものでも見るかのように大祐を睨むと、手をかざした。
――殺られる。
身構えたところで、精霊が飛び出してきた。主の命を守ろうとしたのだろう。
イズーは精霊をまじまじと見詰めると、そのうちの一匹をひょいと掴んだ。
「これは俺が作った、『八百万の神デラックス』だな」
デラックスだかなんだかは知らないが、そのとおり、『黒き魔導師』から譲り受けた精霊である。
「ということは、お前は、『絶対零度の死神』か」
「そ、そうだ!」
地に尻をつけたまま、大祐は吠えた。しかしイズーは興味がなさそうだ。無表情のまま、呪文を唱える。すると、淡く光る触手が地面を突き破り、何本も出現した。
触手は大祐の首に巻きつき、一気に高く伸びる。
「ぐっ……!」
足がつかない高さに持ち上げられ、大祐は暴れた。気道を締め上げられ、息ができない。
「大祐! 大祐っ! やめて! やめてください! イズー様! 大祐が死んじゃう!」
モモは半狂乱になり、大祐の側に寄るイズーに、火の玉を撃ち込んだ。しかしモモの攻撃は、イズーの周囲に巡らされた魔法障壁によって、呆気なく消し飛んだた。
「あ、ああ……!」
モモの顔が絶望に染まる。
「ほう、『死神』。お前、なかなか良いものを持っているじゃないか」
ばたばたと藻掻いている大祐の指に嵌った、指輪に目を留め、イズーはそれを抜き取った。
「精霊の力を増幅させる、マジックリング。魔族の秘宝のひとつだ。お前には豚に真珠だろう」
イズーは奪った指輪を、自らの指に嵌めた。
「イズー様! な、なぜ、こんなことをするのです!」
モモが泣き叫ぶ。
「ああ、そうだった。こんなことをしている場合ではなかった。俺が用があるのは、お前だった。――野良猫」
「私……?」
「忌々しいことに、俺はもう『異界の扉』を召喚できないからな。元の世界へ戻れない。だから、お前の力がいる」
「元の世界へ……戻る……?」
この男は、今更なにを言っているのだろう。必死に頼んだあのときは、なんの慈悲も見せず、自分をあしらったくせに。
怒りと戸惑いに包まれるモモの前で、イズーは唇の端を上げ、微笑んだ。
「喜べ、野良猫。お前の望みを叶えてやろう。人間どもは皆殺しだ」
「えっ……」
だがイズーが続けた台詞に、モモの全身は総毛立った。
「人間だけじゃない。魔物もだ。生きとし生けるもの全てを、殺し尽くす」
「な、な、なにを……! そんなの、そんなのダメです!」
モモを見詰める青い瞳は、微塵も揺れていない。
「やりたいと思ったなら、やるだけだ。俺にはその力がある。権利も。――なぜ今までそうしなかったのか、我ながら不思議だ」
生まれ落ちたその時から、蔑まれる運命を歩み。
虐げられ、疎まれ、誰からも愛されず。
不幸と孤独の中で、欺瞞の時を過ごした。
――だが、違う人生を知らないうちは、まだ良かったのだ。
拾われ、構われ、甘やかされて。
風吹と出会い、共に暮らしたことで、イズーは幸福を手に入れた。それと同時に、今までの自分は可哀想で、哀れな男だったと知ったのだ。
そんな事実を突きつけておきながら、無責任に捨てた。拒んだ。
暖かな寝床を知った者が、冷たく凍える野に戻れるわけがない。
――憎い。あの女が憎い。
「風吹を殺す。あいつの住む、この世界を壊す。そしてなにもかも全部、消してしまおう。俺をいらないと言うなら、俺だってこんな世界いらない」
暗い奈落に落ちていくなら、巻き添えだ。
皆、苦しんで、死ねばいい。
イズーの哄笑が、夜の川原に高らかに響く。
「うっ、うう……!」
遂に大祐は意識を失った。その途端、彼の体から、炎のような赤い靄が浮かび上がった。赤い靄に触れると触手は消え、戒めを解かれた大祐は地面に落ちた。
「大祐!」
モモは大祐に駆け寄った。頬を叩くと、大祐は忙しく呼吸を再開させた。朦朧としているが、どうやら命に別状はないようだ。
大祐から立ち昇った靄はゆっくり移動し、イズーを取り囲んでいる。まるで寄生する相手を替えたかのようだ。
「ふん……。その男が魔王だったのか」
「あ……!」
モモは倒れたままの大祐を見、そしてイズーを振り仰いだ。
魔王だった大祐を倒した。だから――。
「魔王の継承」は、成された。
つまり現在の魔王は、イズーということだ。
「そういえば俺は、魔王に会うためにこの世界に来たんだったな。だが、こんな奴が魔王だったなんて。やはりこの世はつまらない」
偉大なる魔王の座を継いだのに、イズーは少しも嬉しそうな素振りも見せず、吐き捨てた。
どうしていいか分からず、モモは大祐の服を握り締めた。
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