9-5

 エプロンを着けた新しき魔王は、悠々と「多魔川」のほとりへ進んだ。陸との境目に作られたコンクリートのブロックの上で立ち止まり、つぶやく。


「出てこい」


 するとイズーの体の中から、光る玉のようなものがズラッと大量に現われた。イズーが改良に改良を重ねた、八百万の神たちである。

 しかしなぜだろう、不可解だ。モモは、イズーと彼が携えた八百万の神たちに、目を凝らした。

 この世界の大気には養分があまり含まれていないから、精霊は充分な力を発揮できないはずなのに。だがイズーが侍らせている八百万の神々は、生命力に満ち満ちている。よく観察してみれば、彼らの魔力の源は、イズーのようだ。

 八百万の神々は、イズーから魔力を吸収している。しかし複数の魔法生物に魔力を吸われていれば、普通の人間ならばすぐ昏倒してしまうだろう。しかしイズーはピンピンしており、わずかな衰えも見せなかった。


「魔導師殿には、もはや人としての縛りがない……」

「……!?」


 土手の暗がりから突然現れた男を、モモは驚いて振り返った。

 男は随分と奇妙な格好をしている。頭髪をすっかり剃り、黒い着物に短い袴を身に着け、足元は脚絆に雪駄だ。――こちらの世界の、特にここ日本の住人ならば、僧侶の格好だとすぐ分かるだろう。もっとも彼は姿だけ似せているだけで、仏門に入ったわけではないのだが。

 男は、海月 幻燈である。

 暗く足元の危うい土手をものともせず、走り降りてきた幻燈は、険しい目つきでイズーを見据えた。


「普通の人間ならば、なにをする場合でも、無意識に制限をかけます。本当の意味で全力を出せば、あっという間に身も心も疲れ果て、生命の危機を招くからです。だが魔導師殿は、あえてその縛りを解いてしまった。だからあのように際限なく、八百万の神々に魔力を与えることができるのです」

「で、でも、それじゃあ……!」


 モモが危惧した事柄に、幻燈は頷く。


「はい。魔導師殿の命も、そう長くもたないでしょう」


 今のイズーはつまり、無尽蔵に魔力の湧き出る泉のようなものだ。だがもちろん幻燈の言うとおり、そんな状態は長くは続かない。早晩、体力も精神力も枯渇し、息絶えるだろう。


「二つの世界を滅ぼすまで、もてばいい」


 イズーは薄く笑いながら、八百万の神が一体を手で弄んでいる。


「幻燈。お前には随分世話になったな。だからお前は苦しませることなく、一瞬で屠ってやろう。なに、ほんの礼だ」


 そう言うとイズーは後ろを向き、堂々とモモと幻燈に背中を見せた。無防備なその態度は、どんな攻撃を受けようとも覆せるという、絶対的な自信の現れだ。事実、イズーを守護する魔法障壁は厚く、きっとなにをも通さないだろう。


「くっ……!」


 幻燈は唇を噛んだ。

 こうなる前に、葬っておくべきだったのか。

 魔導師が危険な人物だということは、重々承知していたのに。

 イズーは取り扱いが非常に難しい、強力な爆弾だ。なにがきっかけで導火線に火が点くか分からず、しかもそうなれば誰にも止められない。自ら爆ぜて、なにもかも破壊し尽くす。

 ――それでも。

 ある意味、純粋無垢。ただひたすら一人の女性の愛情を欲するだけの、子供のような彼を、殺すことなどできなかった。僧侶として、いや人として、良心が咎めて、できなかったのだ。


「だがそれでも、私はやるべきだったのに……!」


 どこかへ消えた、勇者の代わりに。

 そして妻と、生まれてくる子供のために。

 後悔に責め苛まれて、胸が苦しい。幻燈は手にした錫杖を、強く掴んだ。


「ほら、見事だろう?」


 イズーは再び幻燈とモモに向き直った。その斜め後ろで、八百万の神は宙に浮き、静止している。


「な、なんだ……!?」


 丸々とした神は、眩しく輝き出した。それに応えるかのように、「多魔川」の水面から、土から、草花から、様々な色の光が湧き立ち、粒となって一直線に集まってくる。それら光の粒を吸い上げ、自身の嵩を増し――色とりどりの光を纏った神は、新たな形を成した。


「竜……!?」


 幻燈が驚きに叫んだとおり、そう、それは竜だった。

 果てが見えないほど長く、太い胴体。それらと繋がっている大きな顔には、角と髭があった。眼光は鋭く、開いた口には尖った牙が覗く。体の両脇に生えた手には、なにをも切り裂くだろう凶悪な鉤爪が備わっていた。

 神々しくも恐ろしげな竜は、夏の夜空に浮かび、七色に光り輝いている。既に五mは超すだろう巨体のくせに、ありとあらゆるものから魔力を吸い取り、それは尚も成長しようとしていた。


「全てを喰らい尽くす竜。こいつが飛び立つそのとき、世界は終焉を迎える」


 用意されていたセリフをただ読み上げるように、イズーは淡々と告げた。


「う……?」

「大祐! 大丈夫か!?」


 モモに抱えられるようにして気を失っていた大祐は、ようやく目を覚ました。そして、すぐ近くでふよふよ浮いている竜を見て、仰天した。


「な、なんだ、あれ!?」

「世界を滅ぼす竜だと、イズー様が……」

「あ!? 滅ぼす!? なんだそれ、魔王みたいなこと言いやがって!」


 大祐はその場に座り直すと、モモとイズーの顔を交互に見比べた。彼はまだ気づいていないようだが、「みたい」ではなく、そのとおりだ。今はイズーが魔王なのだ。


「ともかく、魔導師殿を止めなければ!」


 幻燈は錫杖を構えると、神聖魔法を次々に放った。しかしイズーの魔法障壁を、どうしても貫くことができない。

 モモも魔法で加勢する。いつの間にか近くにいたお坊さんに面食らいつつ、大祐も残りの精霊を服の中から取り出し、呪文を唱えた。

 三人がかりで攻めようとも、イズーの魔法障壁はびくともしなかった。その間も竜は、魔力を吸い、肥え太っていく。


「くそっ!」


 幻燈、モモ、大祐。三人の表情が、徐々に諦めの色に染まっていく。

 魔王にまで上り詰めた男に、勝てるはずがない。来るべき死に抗わず、楽になってしまいたい……。

 障壁の内側にいるイズーは、涼しい顔をしている。が、その愁眉が、ぴくりと震えた。

 幻燈たちは術を繰り出すのに必死で気づかなかったが、土手を降り、こちらに向かって歩いてくる女性がいたのだ。


「イズー? そこにいるの、イズーでしょ?」


 風吹だ。

 その声に、ようやく幻燈が反応する。


「いけない……!」


 間に合うならば、風吹にイズーを止めて欲しかった。だか今となっては、戦いに巻き込んでしまうだけだ。

 幻燈は風吹を遠ざけようと、一歩踏み出した。その途端、沈黙を守っていた竜が吠え猛る。


「ぐっ……!」


 心臓を凍りつかせるような邪悪な咆哮に、幻燈の足は思わず止まった。

 竜は鳴き声と共に、その口から衝撃波を吐き出した。

 人の骨肉など呆気なく砕くだろうそれが、風吹にまっすぐ襲いかかる。


「ああっ……!」


 皆が風吹の死を確信したそのとき、しかし衝撃波は彼女の目の前で霧散した。


「えっ……!?」


 なにが起こったか理解できず、幻燈たちは瞬きを繰り返す。


「どういうことだ。まさか……! まさか、風吹さんは……!」


 竜は何度も吠えた。しかし結果は同じだった。衝撃波はいずれも風吹の前で、空気に溶けるように消えてしまう。

 当然といえば、当然だ。理由は分からないが、風吹には彼女に害を及ぼす魔法だけが、一切効かないのだ。

 魔法では殺せない。風吹は無事だと、分かっていたのだろう。イズーは動じておらず、彼女に背中を向けている。


「イズー……」


 不機嫌そうな後ろ姿を見るに、どうやらイズーは怒っているようだ。

 風吹はため息をついた。


「風が強いねー……」


 鬱陶しそうに髪を押さえる風吹の、その顔に当たるそよ風は、世界を滅ぼすために生まれた竜が、渾身の力を込めて吐き出した衝撃波の、なれの果てであるのだが……。

 どうやらイズーだけではなく、ほかにも誰かいるようだ。ようやく暗闇に慣れてきた目を細めて、風吹は辺りを見回した。

 いるのは、一人、二人、三人だろうか。

 一人目は、イズーが自宅に連れ込んだ、猫耳のあの少女だ。


 ――なんで、一緒にいるわけ?


 風吹の眼尻は、ついつい吊り上がってしまう。

 二人目は、お坊さんの格好をした男性だった。なぜこんなところにそのような職業の人がいるのか謎だったが、もしかしたら彼もコスプレをしているだけなのだろうか。

 三人目も男性のようだが、猫耳の少女の影にいて、よく見えない。


「えっと、イズー。そんなに川に近づいたら、危ないよ。こっちにおいで」


 子供を諭すように声を掛けるが、イズーは後ろを向いたまま、動かない。


「その……。ごめんね? 話も聞かずに追い出したのは、悪かったよ。でも、イズーもいけないんだよ? 私がいない間に、ああいうのは……気分良くないし」

「……………………」


 ゆっくりイズーとの距離を縮めていく風吹を、幻燈たち三人は呆けたように見守った。


「ねえ、ご飯食べた? まだ? だったら、早く帰ろう? お腹すいたでしょ? 今日は私がご飯作るから。ね?」

「……………………」


 二つの世界を滅さんとす、残虐非道な新・魔王様。冷酷無比であるはずのイズーは、だが風吹がなにか言うたび、動揺を隠し切れないようだ。肩を揺らしたり、爪先を動かしたり……。

 竜は連続で大量の力を使ったせいか、二回りほど小さくなっており、今は静かなものだ。


「やっぱり、魔導師殿をなんとかできるのは、風吹さんだけだ……。頼みます、風吹さん……!」


 幻燈は天に祈った。

 世界の命運を賭けた勝負――にしては、欠片も緊張感のないやり取りに、一同は耳を澄ます。


「ねえ、イズー。無視しないでってば。ねえ!」

「……………………」

「もー。本当はこんなときに、言うつもりはなかったんだけど……」


 手を伸ばせばイズーに触れられるところまで歩み寄ると、風吹は肩に提げていた通勤用のバッグをごそごそと漁った。





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