9-3
風吹がソファに沈んだまま動けなくなって、気がつけば、もうだいぶ経っていた。
――六時半。夏の日は長く、外はまだ明るい。
辺りが妙に静かだ。そういえばここ最近、風吹が自宅で一人過ごすことはなかった。仕事から帰ってくれば、そして休日も、いつだってイズーがいたからだ。
「はあ……」
つい先ほど遭遇した修羅場を思い出せば、死にたい気持ちになってくる。
いい歳をして、ヤキモチをやくなんて、みっともない。
だがどうしても、イズーを許せなかった。
恋人の――いや自分のことを、イズーの恋人と言ってしまっていいのか自信がないが、しかし世話になっている女性の家に、別の女を連れ込むとは。ルール違反だし、裏切りだろう。
自分の生活費も稼げず、衣食住全てを依存しているくせに、下半身だけは達者だなんて、最低じゃないか。
怒りのままそこまで思ってから、風吹は眉間にシワを寄せ、首を振った。
――ダメダメ、これじゃモラハラだ。
イズーに経済力がないことは、分かっていたはずだ。承知のうえで受け入れようと決めたのに、そこを責めるのは可哀想だろう。
そもそも、たった一回の浮気で捨ててやろうなどと思うのは、冷たいのだろうか。
だがやっぱり、イズーのことを咎めずにはいられない。
――私って、嫉妬深いなあ……。
ソファの上で、風吹は頭を抱え込む。
あのままイズーと一緒にいたら、取り返しのつかない、とんでもなくひどいことを言ってしまいそうで、だから出て行ってもらった。怒りに煮えた脳みそを、一旦冷ます時間が必要だったのだ。
前にイズーの住民票を見せてもらっていたから、彼の自宅がさほど遠くないところにあるのも知っていた。この部屋から追い出されても、自分の家に帰ればいいはずだ。路頭に迷うことはないだろう、と。
――このまま、お別れすることになるのかな。
男女の仲なんて、終わるときは呆気なく終わる。そのことを今までの経験上よく知っている風吹は、膝の上に頬杖をつき、乾いた笑みを浮かべた。
どこか自暴自棄になっている、そんな彼女を心配そうに見詰める影が一つ、いや二つ、三つ……たくさん。部屋にある家電の数だけ、怪しい影が見守っている。付喪神たちだ。
影たちの先頭に浮かんでいるのは、両手鍋の付喪神である。彼は仲間たちの中で、風吹への忠誠心が最も厚い。
「ああ……。なんでこんなことに」
風吹は両手鍋の付喪神の悲しそうなつぶやきは聞こえず、彼の姿形すら、ほんのわずかも見ることができない。
「あいつだって、なにも本当に出て行かなくても……。変なとこだけ、なんで律儀なんだよっ!」
両手鍋の付喪神は、イズーのことが、はっきり言って好きではない。なにしろあの男は、崇め奉るべき八百万の神々を粉々に粉砕し、煮込んでしまうような、地獄の獄卒もかくやと思われるほどのド畜生なのだ。しかしそんな非常識な行動も、万事、風吹を想うが故のことである。
風吹に、誠心誠意尽くす。イズーのその姿勢に、両手鍋の付喪神はシンパシーを感じると同時に、ある種の敬意を抱いていた。
風吹のためなら、火の中、水の中。己の能力を出し惜しみせず、創意工夫を凝らす。禁忌を恐れず、なんだってやる。
付喪神は自分が同じ立場だったとしても、きっとあそこまではできない。
「いけすかねえ奴だけど、そこだけは褒めてやってもいいと思ってたのに……」
あれほど風吹に忠実な男は、これまでも、そしてこれからも、決して現れないだろう。
――ああいう男が側にいてくれれば、主は絶対に幸せになれるのに。
両手鍋の付喪神は、小さな拳を握り締めた。
「よし……!」
決然と顔を上げた付喪神は、台所の奥へ飛ぶと、ガスコンロに置きっぱなしになっていた自らの本体、すなわち両手鍋に近づいた。そして鍋の重たい蓋の縁に手をかけると、渾身の力で払い上げる。
「とりゃあああああ!」
大きな音がした。
「……ん?」
風吹が台所へ行けば、なぜか鍋の蓋が落ちており、床で転がっている。
「ちゃんと閉まってなかったのかな……?」
風吹は蓋を拾い上げ、ガスコンロにかかっていた両手鍋の上に乗せようとした。その拍子に鍋の中身に気づき、手を止める。
両手鍋には独特の香りのするスープが、たっぷり波々と入っていた。イズーが作ったのだろうか。興味を惹かれて小皿に取り、一口飲んでみる。
「カレー? でも、ちょっと不思議な味……」
香りはカレーにそっくりだが、味は薬っぽいというのか、少々苦い。様々なスパイスが使われているらしく、複雑な味だった。
コンロの横の作業台には、見たことのない料理本が出しっぱなしになっている。イズーが小遣いで買ったものらしい。
「せっかくなんだから、もっと自分の好きなものを買えばいいのになあ……」
一日千円渡している小遣いを、イズーはあまり使っていないようだ。たまになにか買っているかと思えば、百均の台所用グッズだったり、外国製の洗剤だったり、家のことに使うものばかりだった。
置かれていた料理本を手に取ってめくってみれば、各所にみっちり書き込みがしてある。
『八月十日。風吹はあまり箸が進んでいなかった。塩が多かったか? レシピにある小さじ三杯を、二杯に減らしてもいいかもしれない』
記憶を辿れば、そういえばこの日、今開いてるページに載っている料理を食べたかもしれない。ほかのページも確認してみるが、いずれも料理を作った日付と、そして風吹の反応がメモしてあった。
風吹は好き嫌いもないし、出されたものはなんでも美味しくいただいているつもりだった。しかしイズーは風吹のどんな些細な様子も見逃さず、書き留めているのだった。
『風吹は好物を取っておくタイプらしい。茶碗蒸しの具のエビを、最後の最後に食べた。なんと涙ぐましい……。今度はもっと大きなエビを、一匹と言わず、たくさん入れてやろう』
イズーの記した赤裸々な内容に、風吹は思わず顔を赤くした。――恥ずかしい。
どこのページも同じようなものだった。ただただ風吹のことばかり、書いてある。
「……………………」
風吹は本を閉じ、大きく息を吐いた。
――迎えに行こうか。
だが、イズーはどこへ向かったのか。自分の家へ、まっすぐ戻っただろうか。
この間見せてもらった住民票を、探さなければ。風吹がそう思ったところで、場違いに明るいメロディが鳴り響いた。スマートフォンの着信音だ。
風吹は慌てて居間に戻り、放置してあったスマホの液晶画面を確かめた。イズーかと思ったのだがそうではなく、意外な人物からだった。
「こんばんは~」
以前と変わらず、柔らかく華やかな声がした。
海月 クララ。仕事で知り合った、有名な占い師だ。
「こんばんは、海月先生。いつもお世話になっております」
一体どうしたのだろう。風吹が気もそぞろに形どおりの挨拶をすると、クララは早速、用件を切り出した。
「急にごめんなさいね。友良さん、今、困ってない?」
「えっ!?」
どうして分かったのだろう。これがスピリチュアル・パワーというやつか。
占い師はすごい。すご過ぎる。
風吹は耳に当てたスマホを、力強く両手で握った。
「じ、実はちょっと、彼氏とケンカしてしまって」
「あらあら、もしかして、その彼と連絡が取れなくなって、心配なさってるんじゃない?」
「はい、そうなんです」
「分かったわ。彼氏さんがどこにいるか、占ってみるわね」
「お、お願いします……!」
まるでこちらの状況を近くで見聞きしていたかのように、クララは理解が早い。
驚きながらも、風吹は藁にもすがる思いで、クララの言葉を待った。
「うんにゃらもんにゃらぐんにゃら、破ァーーーーッ!」
普通なら笑ってしまうだろう、ふざけているとしか思えないような呪文を発したのち、クララは咳払いした。
「見えたわ。友良さん、おうちの近くに、大きな川はないかしら? あなたの恋人は、その川の近くにいるわ」
「あ、あります! 川、あります!」
クララの言うとおり、風吹のマンションから少し歩いたところに、全国的にも有名な一級河川が流れている。その名は、「多魔川」だ。
しかし、川とは。聞いた途端、風吹は嫌な連想をしてしまった。
川。水。――入水自殺。
「あ、ありがとうございます! 私、行きます! お礼は、また改めまして……! すみません!」
「うんうん、早く行ってあげて。それじゃ」
風吹は電話を切ると、玄関に走った。が、慌てて引き返し、通勤に使っているカバンを引っ掴むと、今度こそ表へ飛び出して行った。
風吹との通話を終えると、クララはまた違う相手へ電話をかけた。一コール目が終わる前に出たのは、彼女の夫である。
「伝えたわ。すぐ行くって」
「ありがとうございます。お疲れさまでした」
「あなたも気をつけてね」
「はい」
手短な会話を交わし、電話を切る。クララは顔を曇らせたまま、大きなお腹をそっと撫でた。目の前のダイニングテーブルに置いてあった古い書物を引き寄せ、最終ページを開く。
この分厚い本は、魔王の居城より拝借してきた、予言書である。予言書は、不吉な文言で締めくくられていた。
『故郷より旅立った魔の眷属が、異世界で眠りについた魔王を目覚めさせる。覚醒した魔王は異世界を滅ぼし、その血塗られた武功を手土産にして、帰還するだろう。指輪が、新たなる魔王の誕生を導くのだ』
『かの王により、全ての人の子は生命を断たれ、以降復活はしない』
クララたち夫婦は予言を、「イズーが異世界で探し出した魔王が、人間を滅ぼす」と解釈していた。しかしどうもおかしい。予言のひとつひとつには、それらが起こる時代の魔王も挿画として共に描かれているのだが、異世界へ隠れた魔王と最後の魔王とでは、明らかに姿が異なっているのだ。
異世界へ隠れた魔王は、暗い目をした、地味な青年として描かれている。それに引き換え――。
クララと夫は最後の魔王の絵を見て、「新しい時代がやってきた」などと皮肉を言い、笑ったものだ。だが今なら、その意味するところが分かる。
預言書に描かれた最後の魔王は、長身痩躯で美貌の青年だ。そして――エプロンを着けている。
そう、「全ての人の子の生命を断つ」新しき魔王は、黒き魔導師、イズーである。
妻との通話を終えると、幻燈は車から降りた。
すぐ先には、土手へと続く階段がある。ほんの五分ほど前、イズーがそこを上っていった。
予言にある最後の魔王は、イズーではないか。そう疑い始めてから、幻燈とクララはイズーを見張り続けた。
ただ予言は予言だし、外れることだってあるだろう。それにイズーはもう「異界の扉」を召喚できなくなっており、元の世界へは戻れないはずだった。
なにより、イズーには風吹がいる。
恋人を得て、満たされた甘い生活を送っているイズーが、二つの世界の人々を滅ぼそうなどと、そんな血に飢えたかのような蛮行に及ぶとは到底思えなかった。だから最初は毎日イズーと風吹、二人の会話を盗み聞きしていたものが、徐々に日を空けるようになり、最近では一週間に一度ほど、気が向いたときにちらっと適当にチェックする程度になっていた。
警戒を解きかけていたそんな状況だったから、今日幻燈がたまたま仕事で近くまで来たついでに、イズーたちの住まいに寄ったのは、実に運が良かった。それとも虫の知らせのような、なにか不思議な力が働いたのだろうか。
夕方、幻燈がイズーたちのマンションの近くに車を停め、なんとなく彼らの部屋のドアを眺めていたら、死んだ目をしたイズーがふらふらと出てきた。
驚いたことにイズーは、突如五階の廊下から飛び降り――だが八百万の神の力を借りて、生還したのだった。
――無傷で済んだとはいえ、自殺をはかるとは、ただことではあるまい。
幻燈は急ぎイズーの元へ駆けつけ、声を掛けた。しかし巨大な魔法の障壁に阻まれ、彼に近づくことはできなかったのだ。
イズーは、幻燈の声が聞こえているのかいないのか、一度も振り返ることはなかった。
幻燈はイズーの後をつけ、彼が「多魔川」の土手へ上がったところで、妻に連絡をした。風吹をここに、呼び出してもらうためだ。
――恐らく、魔導師殿を止められるのは、風吹さんだけだろう。
空はようやく暗くなり始めた。蒸し暑い風が、幻燈の頬を舐める。
――予言の時が来る。
古き力を廃し、新たな王が誕生する、そのときがやって来るのだ。
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