第8話 嵐の前の……

8-1

 イズーが得意気に寄越してきた書類を手に取り、風吹は字面を目で追った。

 本籍地に氏名、生年月日。そして、両親の名前。

 A4サイズ縦のその紙には、重要な個人情報がびっしり書き込まれている。

 しかしあまりに淡々とした記述に、なにより読み慣れないのもあって、なかなか内容が頭に入ってこない。

 ただ――イズーの両親は、既に亡くなっていることだけは分かった。

 渡された二枚目の紙には、風吹のマンションに転がり込んでくる前、イズーが住んでいたと思しき場所の情報が載っていた。

 都内某所。世帯主はイズー自身だ。


「……………………」


 イズーが風吹に差し出したのは、戸籍謄本――正確には戸籍の全部事項証明書と、住民票である。

 それによると、イズーの本名は「早水 大祐」というらしい。

 年齢は二十五歳。

 両親は先に述べたとおり、数年前に死亡。

 兄弟姉妹はなし。

 イズーの住まいは都内にあって、住所表記からすると、どうやら一戸建てのようだ。


「イズーは一人暮らしだったのかな?」

「ああ」


 ――ご両親が亡くなったあとは、一人だったんだ……。


 寂しかっただろう、つらかっただろう。慰めるのは容易いが、古傷に触れるのは避けたくて、風吹は別のことを尋ねた。


「てことは、イズーは日本人なの? ご両親も、お名前を拝見する限り、日本で生まれ育った方たちのようだけど」

「そうだ」

「……………………」


 風吹は顔を上げて、目の前の、あまりに整ったイズーの顔を眺め回した。

 褐色の肌に銀色の髪。青い目と彫りの深い顔だち。背も高く、手足も長いし、どう見ても日本人とは思えないが。

 イズーは養子なのだろうか。それともどこかで異国の人の血が入ったのだろうか。

 あるいは――もしかしたら母親が、ちょっとなにか、いけない火遊びをしたとか。

 などなど、危険な好奇心が掻き立てられそうになるが、風吹はなんとかそれを抑え込んだ。

 家庭の事情に、他人が踏み込むべきではない。確かにそのとおりなのだが、しかしイズーと出会ったときのことを思い出せば、様々な疑問が浮かんでくるのも致し方ないことだ。


「日本生まれで、日本育ちなら……。うちに来たばかりのとき、シャワーの使い方が分からなかったり、電化製品に驚いてたりしてたけど、なんで?」


 責めるつもりはなく、単純に不思議で、風吹は首を傾げた。イズーはしどろもどろに答える。


「シャワーもエアコンも冷蔵庫も、目にするのが初めてだったから……」

「えー? 未開の地から来た人なら分かるけど、都内に住んでたんでしょう?」

「だからその、えーと、俺の家はそういう方針? だったんだ……」


 自分で言いながら不安げなイズーに、風吹は尚、食い下がった。


「方針?」

「ええと、その……科学技術の発展は悪とか、そういう感じの! 生態系を破壊するとかなんとか。だから文明の利器は一切使わず、風呂もかまども薪で炊くような、俺はそんな家庭で育ったんだ!」


 ほかに良い方便も思いつかないから、イズーは力技で乗り切ろうとした。


「それはそれは……」


 風吹はなるべく表情を消して頷いた。

 わざわざ都会で暮らしておきながら、便利な生活は悪だなどと主張されても説得力がない。

 イズーの生家は、随分面倒くさそうだ。だが故人の悪口をこぼすのも忍びなくて、風吹はイズーの両親に抱いた諸々の所感を、そっと胸にしまい込んだ。


「色々なご家庭があるんだね」


 風吹はいい意味でも悪い意味でも大人で、だから不必要な詮索はしない。理解も納得もしていないようだが、とりあえずイズーの話を信じたようだ。


「お名前は、『だいすけ』くんって読むのでいいのかな?」

「多分……あ、いや、そうそう、だいすけだ!」

「ふーん」


 風吹は書類を眺めながら微笑んでいる。


「名前がどうかしたか?」


 なにか不備でもあったかとイズーはこわごわ尋ねるが、風吹は首を横に振った。


「ううん、なんでもないの。同僚と同じ名前だなあって思って。その子も『だいすけ』っていうし、苗字も似てるんだよね」


 書類を丁寧に畳み、元どおり封筒にしまうと、風吹はそれをイズーに返した。


「あれ? でも、なんでイズーは『イズー』なの? あだ名っていうにしては、本名と似ても似つかないし」


 本名が「だいすけ」ならば、例えば「だいちゃん」だとか、そのように名乗るのならば分かるのだが。

 風吹はまた首をひねる。ぎくりと身じろぎしたイズーは、急場をしのごうと行き当たりばったりで答えた。


「ぜ、前世ネームだ!」

「ぜんせ」

「そう! 生まれ変わる前、俺は古代アトランチス王家に仕える、魔導師だったんだ! 今も一緒に戦った仲間の勇者や僧侶を探していて、だから前世の名を名乗っている!」


 こんなけったいな言い訳がスラスラと口から飛び出したのは、日頃から入り浸っている怪しいSNSのおかげだろうか。

 オカルト系SNS「漆黒と混沌」。あそこなら多くのユーザーたちが、いつも似たようなことを書き込んでいる。

 そして、真実の混ざった嘘は、なかなか見破られることはない。世間で言われているその法則を、イズーは守った。

 前世ではないが、彼が魔導師だったのは本当のことであるし。


「そうなんだー。早くみんなに会えるといいねー」


 風吹は生ぬるい笑みを浮かべるだけで、やはり追及はしなかった。


 ――よしよし、うまくいった。さすが、俺。


 イズーは安堵し、自身を褒め称えた。しかしこれは別にイズーの話術が巧みだったというよりは、「怪しいことに関わりたくない」という、風吹の防衛本能が働いたに過ぎないだろう。


「これからは『だいすけくん』って呼ぶほうがいい? それともイズー?」

「イズーでお願いします……」


「早水 大祐」は、所詮借り物の名前だ。イズーは今までどおり呼んでくれるように頼み、風吹も承知した。


「そっかあ。イズーは東京の人で、本名は早水 大祐くんかあ……」


 不可解な部分も多々あるが、それでもイズーの身元が明らかになったことで、風吹は安心したようだ。頬が緩んでいる。

 これで良かったのだろう。イズーもまた胸を撫で下ろした。









 話はこの日の早朝に遡る。


 二階と一階、窓に扉。戸締まりを確かめたのは、これでもう何度目になるだろうか。

 ガスの元栓は締めた。電気のブレーカーも落とした。

 もう二度とここへ帰ってくることはないのだろうから、適当でいいじゃないかとも思うが、いや、火事でも起こしてご近所に迷惑をかけてはいけないから、慎重にせねばとも思う。

 確認に確認を重ねたうえで、早水 大祐は玄関の扉を閉めた。


 ――よし、これで大丈夫。


 大祐が握り締めた鍵には、ブサイクなネコのキーホルダーがぶら下がっている。そのネコはもう二十年以上も前に流行ったアニメのキャラクターで、大祐本人に記憶はないが、幼い頃の彼のお気に入りだったそうだ。鍵もキーホルダーも元々は母親の持ち物で、彼女亡きあと、大祐がそれをそのまま使っている。

 家の鍵なんて、両親が亡くなるその日まで、大祐は持たずに暮らしていた。帰ればたいてい母親がいて、扉を開けてくれたからだ。

 

 ――こんなこと、久しぶりに思い出した。


 感傷的になっているのだろうか。この世界ともうじきお別れすると思うと、やたらと昔の記憶が甦る。

 大祐は自宅の鍵をズボンのポケットにしまった。


『こっちで生きていけないなら、私の故郷に来ても、きっとすぐ死ぬぞ。私の世界は、そういうところなんだ』


 ほんのわずか一緒に過ごした、あの猫耳の少女はそう言っていたが。

 そうだ。これから向かう世界は、もしかしたら危険なところかもしれない。

 それでも行くと決めた。

 今この世界にだって、食うに困るような生活をしている人たちだっているし、病気で苦しんでいる人たちだっているだろう。そういう人々に比べれば、自分はまだいいほうだ。

 だが、それがどうしたとも思う。

 誰かと比べてマシでも、自分が不幸だと思っている以上、大祐はいつまでも幸せになれはしないのだ。

 リセットしてやり直したい。憧れていた、剣と魔法の世界で。

 そしてみんなを見返してやるのだ。

 ――だが「みんな」とは誰か。それは大祐にも分かりはしなかった。





 午前四時。それが約束の時間だった。

 まだ電車の動いている時間ではなかったので、最寄り駅の前で休憩していたタクシーを起こし、早水 大祐は目的地に向かった。

「多魔川」の土手。「黒き魔導師」と待ち合わせたそこへは、二十分ほどで着いた。

 朝早い時間だからかもしれないが、二時間ドラマに出てくる殺人現場のように、辺りに人気はなかった。土手を下り、高架下へ向かう。


「ぎょえーーーーー!?」


 思わず大祐は悲鳴を上げた。高架下の影に紛れ、背の高い男が一人、待ち構えていたからだ。

 男は半袖のパーカーを着て、下はハーフパンツにサンダル履きだった。なぜかしわしわのレジ袋を提げている。


「『絶対零度の死神』か?」


 男は淡々と尋ねてきた。心臓をドカンドカンと激しく鳴らしたまま、大祐はなんとか頷いた。

 それにしても「死神」とは、相変わらず、声に出して呼ばれると恥ずかしいニックネームである。


「お前は、く、『黒き魔導師』か?」


 相手もこくんと顎を引き、顔半分を隠していたフードを上げた。


「――!」


 魔導師の正体を目にした途端、大祐は息を呑んだ。

 浅黒い肌に銀色の髪。人形のような端正な顔だち。

「黒き魔導師」は自身のことを「異世界から来た、力ある魔法使い」と語ったが、きっとそのとおりなのだろう。間違いない。この「魔導師」は小説や漫画の登場人物そのもので、同性でも見惚れてしまうほど美しいのだから、絶対に絶対に「本物」だ。そうとしか思えない。

 ――単純なことに、大祐はすっかり「黒き魔導師」と、彼の話を信用してしまった。


「先に、約束のものを貰おうか」


「黒き魔導師」が手を差し出す。大祐はバッグから封筒を抜き取り、彼に渡した。

 異世界へ送ってくれる。その代償として大祐が要求されたものは、戸籍である。それを証明するものとして、住民票と戸籍謄本を持ってくるように指示されたのだ。悪用される恐れも大いにあったが、この世界から出て行く自分には関係ないだろうと、大祐は「黒き魔導師」の出した条件を飲んだのだった。

 魔導師は持っていたレジ袋に封筒をしまうと、代わりに小さな箱を取り出した。菓子の空箱のようだが、それを開ける。


「?」


 箱の開いた口が一瞬だけ光ったが、すぐに消えた。大祐には見えない、箱から出てきた「なにか」を、「黒き魔導師」が視線で追っている。それはゆっくり、大祐に近づいてきたようだ。


「え? な、なに? なにかいんの?」


 大祐は気味悪そうにきょろきょろと、でっぷりと太った自分の体に目をやった。


「精霊をくっつけてやったんだ。俺が故郷で飼っていたやつと、こっちで新しく作ったやつ。んー、あともう二、三体、憑けとくか……。お前、弱そうだからな」


 魔導師はレジ袋から先ほどと同じような箱を出すと、また蓋を開けた。


「こいつはな、火に水に風に土、それぞれの属性の八百万の神を合体させた、理論上は最強の精霊だ。こっちの世界ではどうしても弱体化するから、実際の能力は確かめることができず、不明だけどな」

「精霊が憑いている……?」


 大祐は自分の手足を眺めるが、それらしきものは欠片も見つけられなかった。

 騙されているのだろうか。疑っていると、いきなり腕を掴まれた。驚く間もなく、電気が走ったかのように、全身がびりっと痺れる。


「わっ!」


 大祐はびっくりして、「黒き魔導師」の手を払い除けた。


『言葉が分かるか? 俺の持つ知識の一部を、今お前に分け与えてやった』

「……え?」


 魔導師は、聞いたことのない言葉で話している。大祐はあまり外国語に詳しくないが、どの国のものとも響きが異なるようだ。奇妙なのは、知らない言葉のはずなのに、意味は理解できることだ。


『これが、お前がこれから赴く地で使われている言葉だ。一種類しかないから、困ることはないだろう。言葉と、心身を守護する精霊。これだけ授けてやれば、いきなり死ぬことはないはずだ。あとは自分でなんとかするんだな』


「黒き魔導師」はにこりともせずにそう言うと、唇を素早く動かした。すると空中に、棒のようなものが現れた。


「……?」


 宙に浮かんでいるそれは、よく見ればゲームセンターに置かれている大型ゲームのレバーに似ていた。シルバーのスティックの先に、丸い持ち手が付いている。それを掴むと、魔導師はガチャガチャと前後左右に動かした。


「なんかのコマンドか……?」


 やがて高架下のコンクリートの壁に、薄い線が刻まれ始めた。


「えっ……!」


 壁に、縦に長い長方形が描かれたかと思うと、その中ほどに丸い出っ張りが浮き出てくる。これはドアとノブだろうか。


「開けてみろ」

「……………………」


 魔導師に促されて、大祐は恐る恐る、ドアノブに似た出っ張りを手前に引いた。その途端、壁に描かれた長方形は、膜が剥がれるかのようにふわりとめくれ、消えてしまった。

 長方形のあった場所は、真っ黒な空間になっている。墨汁を垂らしたように暗く、光を通さない――。見詰めているだけで、吸い込まれてしまいそうだ。


「ほら、行け」

「えっ、行けって、この壁の中に!?」

「そうだ。これが『異界の扉』だ」


「異界の扉」。その言葉は聞いたことがある気がするが、どこでだったろうか? 

 いや、今はそんなことを、悠長に思い出している場合ではない。

 こんなどこにでもあるような高架下の壁の先に、本当に大祐が求める世界があるのだろうか。剣と魔法の世界が?

 大祐は振り返って、魔導師の表情を伺った。魔導師はどこかイライラとしながら、大祐を見下ろしている。

 早くしろとの無言の圧力を感じて、大祐は進もうとした。しかし足は動かない。

 本当に行ってしまっていいのか。

 本当に、本当か?

 もうここには、戻って来られないかもしれないのに?

 大祐の脂ぎった額から、冷や汗が滴り落ちる。


「さっさとしてくれ。俺は早く帰って、風吹の朝ごはんを作らないといけないんだ」


 すぐ後ろから声がしたかと思うと、動けずにいた大祐の尻を衝撃が襲った。どうやら力いっぱい蹴られたようだ。


「うわああ!」


 大祐が高架下の壁の中へ吸い込まれると同時に、魔導師は――イズーは、素早くそこを閉めた。


 早水 大祐の異世界への旅立ち。――以上がその一部始終である。





「んー……」


 ふと思いついて、イズーはもう一度「異界の扉」を呼び出す呪文を詠唱した。

 何度か試すが、しかし取っ手も、もちろん扉も、もう二度と現れることはなかった。


「さっきのが最後か……」


 なんとなく、そんな予感はあったのだ。

 元の世界への未練が消えるそのとき、帰る道もまた消える。知り合いの僧侶に、そう聞いていたから。


 ――もうこれで帰れない。


「ま、いっか。今日は玉子を焼っこうかっな~」


 イズーは鼻歌を口ずさみながら、まだ陽の昇らぬ街を歩き、愛する人のいる家へ帰った。




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