8-2
本物の早水 大祐こと「絶対零度の死神」が消息を絶ってから、三日が過ぎた。
その間、オカルト系SNS「漆黒と混沌」は、ちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。
大祐は異世界へ向かう前日、その旨と別れの挨拶をメールにしたため、仲の良いユーザー宛てに送っていたのだ。メールを受け取った者たちは、最初は半信半疑だった。しかし毎日欠かすことなく同SNSになにかしら書き込んでいた「死神」が、もう丸三日、ログインした形跡すらない。これは大事件だと、盛り上がってしまったのだ。
「漆黒と混沌」、通称「しっこん」では、「絶対零度の死神」の捜索を目的としたスレッドが乱立し、そして皆は囁き合った。
もしかしたら「死神」は、本当に異世界へ旅立ったのではないか、と。
『でもさあ、死神とか悪魔とかややこしかったし、その手のニックネームの人が減って良かったじゃん』
そんな血も涙もないレスを書き込んだのは、「黄泉の国のナギナミ」だ。
「ナギナミ」は二種類の人格を持つと自称しているユーザーだが、非情なレスを書き込んだのは女性的、かつ冷酷な「ナミ」のほうである。
その後、「絶対零度の死神」を心配する人々から、しかるべきところへ通報したほうがいいのでは等の意見も出た。が、誰も死神の本名はおろか、彼がどこに住んでいるのかや、携帯電話の番号さえ知らない有様だった。そのうち誰かが「これは高度な釣り行為だ」と――つまり注目されたいがため、「死神」は自らの失踪を偽装したのではないかと言い出し、皆も徐々にその説に流されていった。
これは世間一般で言われている「ネット上の友情なんて儚い」という風説どおりというわけではなく、「死神」の普段の行い、例えば「知ったかぶり」「謎の上から目線」「話がオタくさく鬱陶しい」といった悪癖が原因で、つまり自業自得といえよう。
こうして事態は、「構ってちゃんの『死神』のことだから、そのうち寂しさに耐え切れなくなって、戻ってくるだろww」という結論をもって収束していった。
しかし少々残念な話ではある。「絶対零度の死神」も、もうちょっと思わせぶりなメッセージなりログなりを残しておけば、「異世界へ消えたオカルトマニア」などと、都市伝説のひとつとして語り継がれたかもしれないのに。
それはさておき、「死神」に関する書き込みが著しく減り始めたその頃、「しっこん」の動向を見守っていたイズーへ、ある人物からメッセージが送られてきた。先ほども名前の出た、「黄泉の国のナギナミ」からだ。「チャットがしたい」とのことだったので、イズーはそれを了承した。
『もしや「死神」を、我々の故郷へ送ったんですか?』
単刀直入に聞いてきたのは、二つの人格のうちのもうひとつ、「ナギ」のほうか。
「黄泉の国のナギナミ」。その正体は、イズーと同じ世界からやってきた僧侶・幻燈と、その妻クララである。
イズーが「YES」と返すと、「ナギ」こと幻燈は呆れたのか、しばしの時を空け、返信を寄越した。
『まあ、いいですけど……。でも甘ったれのあの「死神」が、あちらの世界でやっていけるでしょうか?』
「即死は免れるように装備は整えてやったが」
『レベル1の勇者に、はがねのつるぎでも持たせてやったんですか? ところで、どうせタダで送ってやったわけではないんでしょう? なにを貰ったんですか?』
幻燈は勘が鋭い。隠してもしょうがないので、イズーは正直に答えた。
「絶対零度の死神」こと早水 大祐に要求したのは、彼の戸籍を譲り受けることだ。
『なんだってそんなものを?』
「なんでって、この世界で暮らしていくなら必要だろう? 就職するにも、結婚するにも。それに、スマートフォンを買うのにも」
幻燈からは見えないだろうが、イズーは青い瞳をキラキラ輝かせながら文字を打ち込んだ。
イズーはもう随分前から、スマートフォンが欲しくてしょうがなかったのだ。
夢見がちなイズーに、幻燈は冷静に助言する。
『他人になりすますのは、やめておいたほうがいいと思いますが……。特にあなたは「死神」のことをなにも知らないんでしょう? なにかあったとき、例えば「死神」の縁者が出てきたら、すぐにバレますよ』
「ううむ……」
そこでふとイズーは、チャットの相手である幻燈のことが気になった。彼もまた異世界の出身だが、こちらの世界で手広く商売するなど、それなりの地位を築いているではないか。無戸籍だったら不可能だと思われるが、その辺のことはどうしているのか、疑問をぶつけてみた。
『ああ、妻の顧客にそういう立場の人がいましてね。新しく戸籍を作ってもらったんですよ。私と妻の、二人分』
「なにそれずるい」
そんな裏ワザがあろうとは。あまりに羨ましくて、イズーのキータイピングは荒々しくなった。
『仰るとおり、この国で健全な生活を営もうとするならば、戸籍がないと始まりませんからね。なんなら私たちのときにお世話になった人に頼んで、あなたの分も新しく作ってもらいましょうか?』
「本当か?」
『お友達価格で、五百万円でいかがです?』
「ごひゃく……」
目標に達するまで、いったい何枚の御札を作って、売ればいいというのか……。
『ま、その気になったら、いつでも言ってくださいね。では』
頭を抱えるイズーを放ったらかしにして、幻燈は軽やかにチャットから退出していった。
――金、金、金。この世は万事、金次第なのだ……。
資本主義の奴隷に堕ちたイズーは、ふらふらと寝室へ向かった。
ベッドの上では風吹がうつ伏せに寝転がり、雑誌を見ている。足がぱたぱたと上下しているのは、機嫌がいいときの彼女の癖だ。
「なにを読んでるんだ?」
イズーは風吹の横に寝そべり、彼女の手元を覗き込んだ。
風吹が読んでいるのは、彼女が毎月購読しているファッション誌だ。
「指輪、ピアス、ペンダント……。高いな……」
アクセサリーが載っているページを、風吹は熱心に見ている。そこで紹介されている商品は、馬鹿みたいに大きな石がついているとか、見るからにキンキラキンだとかそうじゃなく、むしろ貧相なくらいなのに、どれもこれも高価だった。
「ブランドものだからねえ」
「欲しいのか?」
「んー。夏のボーナス、まるっと残ってるから、たまには買ってもいいかなあって」
見れば、雑誌のほかのページにも、付箋紙が貼られている。欲しいものがあるのだろうか。
そういえば風吹に、なにかねだられたことはない。イズーは切なくなった。
もっとも、なにか買ってくれとねだられても、穀潰しの居候で、しかも彼女自身から小遣いまでもらっている身では、その望みを叶えてやることなど、できないのだが……。
――やっぱり「丑の刻参りセット」でも開発して、金を稼がなければ……!
険しい顔で決意を漲らせているイズーを、風吹は訝しげに見詰めた。
「どうしたの?」
「いや。必要は発明の母だな、と」
「ふーん?」
興味なさそうに相槌を打つと、風吹は雑誌を畳んで、タオルケットをかぶった。
隣で寝転ぶイズーも、同様にくるんでやる。
「暑い」
「じゃあ、お腹だけ。風邪引いちゃうからね」
「ん」
平和な日々。魔法のせいだと思い込んでいた風吹への愛情も、正真正銘本物だった。
毎日は平凡に過ぎていき、少々退屈だが、それが一番だ。
風吹が自分のことをどう思っているのか分からないところが、不安といえば不安だが、少なくとも嫌われてはいまい。
――なにしろ、中出しまでさせてもらったんだからな……!
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら、イズーは下品な優越感に浸る。
「おやすみ……」
そうつぶやいたかと思えば、風吹はすぐに穏やかな寝息を立て始めた。小さく口を開けて眠る彼女の頬に、イズーはそっと口づける。
数えれば小さな問題は若干あるものの、それでもこの優しい時間が長く、いや永遠に続けばいい。
自らも眠りに落ちるまで、イズーは風吹の寝顔を見守り続けた。
疲れた。戻ってきてからこっち、休むことなく突っ走ってきた気がする。
自分はもう、無能な昔の自分じゃない。
己の力を試したかった。以前自分をバカにした奴らを、見返したかった。その思いで、がむしゃらにやってきたのだ。
――でも別に、「敵」なんて、いなかったんだよなあ……。
そう、敵意を向けてきた人間がいたわけじゃない。ただ、無視されていただけだ。
いない者として扱われた。だがそれは、昔の自分がそのように振る舞ったからだ。
ニート、引きこもり。そのような身分に甘んじ、社会生活に背を背けた……。
「はあ……」
ネクタイを緩めて、D太はため息をついた。
十三時過ぎ。昼休みが終わり、人々が戻ってきたのと入れ違いに、会社のある高層ビルから外へ出る。
今日は午後から休みを取った。どうせ暇な時期だし、たまにはいいだろう。
ズボンのポケットの中の、キーホルダーをいじる。
小さな出っ張りは耳、わずかなくびれは首。塗装はすっかり剥げてしまい、あちこち傷があったりへこんだりして原型をとどめていないが、指先に触れるこれは、かつて猫をかたどっていたのだ。
キーホルダーの輪郭をしばらくなぞってから、その先に繋がれている鍵を握り締める。
――確かあの家は、もう無人のはずだ。
久しぶりに行ってみようか。あの家には、亡き父の残したレコードがたくさん残っているはずだ。昔は父の愛した音楽の良さがさっぱり分からなかったが、最近はあの哀愁のあるメロディを聞くのが楽しみになってきた。
――ここからなら、京浜東北ですぐだな。
頭の中に路線図を描いていると、後ろから呼ばれた。
「
振り向けば、上司がこちらに向かって走ってくるところだった。
D太の胸は高鳴る。ついこの間、D太はこの上司に告白したばかりなのだ。
友良 風吹。数才年長――ということになっているが、実はD太のほうがずっと年上である。だが社会人としては、彼女のほうが先輩だ。
風吹はしっかり者で、仕事もできる。それでいてピリピリと力んだところもなく、逆に媚びたところもない。部下には親切で、しかししっかり一線を引いて接する。その線の向こう側に行きたいあまりに焦れて、D太はつい、余計なことを言ったりやったりしたものだが――。
「半休の届け、日付が間違ってたよ。明日でもいいんだけど、間に合うかなと思って、追いかけて来ちゃった」
風吹はD太のもとへ辿り着くと、息を切らしながら微笑んだ。
「あ、すみません」
立ったままでは作業がしにくいので、ビルの入り口付近に設置されたベンチに、二人で腰を下ろした。
渡されたタブレットを受け取り、D太が半休届の日付を修正すると、風吹はくすっと笑った。
「なんですか?」
「ううん。速水
「今更なに言ってんですか」
「だって最近知ったんだよ。その人の名前」
作業はすぐに終わり、D太は送信ボタンをタップした。
「じゃあ、あとはやっておくね。お疲れさま。ゆっくり休んでね」
「……………………」
D太は、立とうとした風吹の腕を掴んだ。昼休みが終わった午後のオフィスビルに、出入りする人影はほとんどない。
「この間の返事を、聞かせてくれませんか」
そうだ。同僚の結婚祝いの飲み会の帰り、D太は告白した。その際、風吹の恋人が現れ、話はうやむやになってしまったのだ。
「あ……。うん、えーと……」
気まずそうに地面に視線を落とす風吹を見て、D太は脈なしだと悟る。
なんとなく分かっていた。
――それにあいつが主任の恋人だったなんて……。俺じゃ到底叶わない。
あの男。「黒き魔導師」。自分の人生を変えた、まさに魔法使い。
あんな凄い男と戦っても、勝てるわけがない。
「気持ちは嬉しいけど、ごめんね」
案の定の返事に、D太は脱力した。
それにしてもこの人は、あの男とどうやって知り合ったのだろう。いやそれ以前に、彼女は「魔導師」の正体を知っているのだろうか。
――隠れオタクってやつか?
いやいや。D太はその疑念を、自ら打ち消した。
オタクだとかマニアだとかいった人種は、いくら隠そうとしても、会話や雰囲気からそれらしき気配を発してしまうものだ。少なくとも過去オタクだったD太には、同類の匂いはすぐに分かる。しかし風吹には、そういったところが一切ない。
あのSNSのユーザーというわけでもないだろうし。――そう、「しっこん」の。
「素敵な彼氏さんですもんね?」
カマをかけるつもりで水を向けてみると、風吹は苦笑した。
「ちょっと変わってるけど、うん、優しい人だよ、すごく」
とぼけているのかとも思ったが、あまりに自然な反応からして、やはり風吹はイズーの正体を知らないようだ。
「あ、この間はごめんね。なんか変な感じになっちゃって。あの人、ヤキモチ焼きなんだよね。よく言っといたから」
「ああ、いえ……」
風吹の謝罪を聞き流しながら、D太の胸はドス黒く染まった。
――バラしてみたら、どうなるだろう。
あの男は異世界から来た魔法使いだ。
あいつにかけてもらった魔法や与えられた精霊のおかげで、D太は数百年も異世界でしぶとく生き残り、頂点に君臨することができた――。
――どうしようか。
心臓が痛いほど鳴っている。D太は尋ねた。
「でも……俺にもチャンスは、少しくらいありますか……?」
――例えば、魔導師がいなくなったら……。
しかし風吹はくるっとD太のほうを向き、きっぱり言った。
「いやーごめん。ないわ」
「えっ」
自惚れていたわけではないが、こうもあっさり断られるとは。
ワンチャンすらないとは、思ってもみなかった。頭の中が真っ白になっているD太の前で、風吹は申し訳なさそうに続けた。
「ごめんね。速水くんが悪いわけじゃないの。仕事もできるし真面目だし、すごく素敵な男の人だと思ってるよ。でもね、えーと……前の彼がね」
なぜここで元カレが出てくるのか。唖然となりながら、しかしD太は思い出した。
この間、確か風吹は答えていた。同僚からの「嫌いなタイプの男は?」の問いに対し、「元カレみたいな人」と。
「前の彼ね、同期だったんだよね。これが結構面倒で。おおっぴらにつき合ってることを公言してたわけじゃないけど、やっぱり周りに気を使わせるもんね。別れたあとは特に。だからね、もう絶対に同じ会社の人とは、つき合わないって決めてるの。ごめんね」
――なんだ、その理由は。
風吹の言い分を聞いたあと、D太はすぐに言葉が出なかった。
なんて融通の利かない――。駄目と決めたら、駄目。恋愛感情よりも、理性が勝るタイプ。
――元カレって、俺自身とは全然関係ないじゃないか!
怒髪天を衝く。頭に血が昇って、だがすとんとすぐに冷めた。
世間一般でまことしやかに語られる「女は子宮でものを考える」。それとは真逆で、風吹はむしろ血なんて通っていない、機械なんじゃないか。
しかしD太は風吹の、そんな冷徹なところに惚れたのだ。
――なんだ、最初から、うまくいくわけなかったんだ。
残念で悲しいが、納得してしまえる。
それでこそ、風吹だ。最低で最高な女なのだ。
D太は掛けているメガネのブリッジを、指で押し上げた。
「すみません。全部忘れてください。これからも良き上司として、ご指導ご鞭撻いただければ幸いです」
いつものクールなD太だ。風吹もほっと息を吐いた。
「もちろん。こちらこそよろしく」
最後に握手をして、二人は別れた。
今日聴くジャズの旋律は、きっと胸に染み入ることだろう。
D太こと、早水 大祐こと、「絶対零度の死神」こと、速水 大輔こと、「運命を調律せし悪魔」こと――異世界では「魔王」とも呼ばれた彼は、そう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます