7-4

 イズーがもう一度名前を呼ぼうとしたそのとき、風吹は見知らぬ誰かの胸に収まっていた。


「……!」


 あの細く、柔らかく、いい匂いのする体を、自分以外の男が抱いているなんて。一瞬で頭が煮えたぎる。イズーは二人に駆け寄ると、風吹の腕を掴み、力任せに男から引き剥がした。


「わ……!」


 バランスを崩した風吹の、肩を抱くようにして支えて、イズーは彼女にちょっかいを出した不埒な男を睨みつけた。


「お前、なにをやっている……! この女は俺のものだぞ!」

「え……!?」


 D太は驚愕に目を見開いている。次にイズーは、風吹を怒鳴りつけた。


「風吹、こいつは誰だ!」

「え、えーと、部下の……」


 風吹はしどろもどろに答えた。少し落ち着いたらしいD太は、イズーと風吹の顔を交互に見比べ、掛けているメガネのブリッジを震える指で上げた。


「お前が……。お前が、主任の彼氏だったのか……!?」


 初対面の人間を「お前」呼ばわりとは、随分失礼な男である。イズーは腹立たしげに舌打ちした。それとも、かつてこの男と関わったことでもあっただろうか。荒ぶる感情をなんとか抑えて、イズーはD太の顔を凝視した。

 少々陰気な雰囲気のする男だが、目鼻立ちは整っている。年齢は自分とそう変わらないだろう。痩せていて、背は低い。――やはり見知らぬ男だ。

 だいたいこちらの世界にイズーの知り合いなんて、風吹と幻燈と、それからせいぜい近くのスーパーの店員だとか肉屋のおばちゃんだとか、それくらいしかいないのだ。


「俺のことを『お前』なんて、気安く呼ぶな。それから、風吹にも近づくな。今度こんな真似をしたら、殺すぞ」

「ちょっと、イズー! そういう乱暴なことは言わないで!」


 イズーが低い声で放った警告は、脅しではなく本気だった。

 D太は言い返すこともなく、しかし怯えている様子もなく、ただじっとイズーの顔を見詰めている。女を取り合っている最中にしては、不気味な反応だ。

 しかし怒りの気持ちのほうが勝っていたイズーには、ケンカを売られているのだとしか受け取れなかった。


 ――腕のひとつでも落としてやろうか。


 しかしおろおろと間に入っている風吹の手前もあり、イズーはすんでのところで踏みとどまった。


「帰るぞ!」

「あ……!」


 風吹の腕をぐっと引くと、自宅の方角へ歩き出す。かなりの道のりを行くまで、イズーは背中にD太の視線を感じていた。





 マンションの自室に着くと、イズーは怒りの矛先を風吹に向けた。


「あの男はなんだ!」

「だから、会社の同僚だって」

「そんな男が、なんで風吹を抱くんだ!」

「いや、それが……。んー……。」


 風吹は考え込んでしまった。

「いじめて欲しい」。D太があのような、あまり一般的ではない懸想をするに至ったのは、そもそも自分が過去、彼にセクハラまがいのことをしてしまったのが原因なのだろうか。


「だとすれば、私が悪いのかなあ……」


 腕を組み、うーんと唸っている風吹を前に、イズーは苛立ちを募らせた。


「どうせあの男が風吹に惚れているとか、そういう話なんだろ!?」

「や、惚れてるっていうより、あれは……」


 風吹は自他共に認める、平凡でごく普通の女性である。見苦しくない程度に身だしなみは整えているが、特段美人というわけでもないし、フェロモンに満ち溢れているわけでもない。しかしどういうわけか、これまでも何度かD太のような、ある種の男性に目をつけられることがあったのだ。

 風吹の性質に強引に名前をつけるならば、「甘ったれた男を惹きつけるタイプ」というのか……。

 ガチの女王様に折檻されたがるほどの気合いはないが、優しいお姉さまにほどほどにいじめられたい。そういう願望を持つ男たちに、風吹は好まれるのである。

 自立した大人の女性でありながら、マイペースでのんびり、しかし厳しいときは厳しいからだろうか。イズーだって、風吹のそんなところに惹かれた男の一人である。

 しかしいくら同好の士だとしても、イズーはD太が風吹に近づくことを、断じて許すつもりはなかった。


 ――風吹は、俺だけのものだ。誰にも渡すものか。


 強く思い込んでいるだけに、先ほど目撃してしまった場面を思い出すたび、イズーの腹の底からは怒りがこみ上げてくる。

 風吹と、自分以外の男が抱き合うなんて――。


「浮気者!」


 憤りのままなじると、風吹もムッとしたようだ。


「別にそういうんじゃないけど」


 怒れば怒るほど頭に血が上るイズーと違って、風吹は冷たく投げやりになる。


 ――愛する女に裏切られそうになった、俺はいわば被害者だ。


 そんな哀れな男に氷のような眼差しを向ける風吹は、なんという薄情者だろう。

 彼女は本当に血の通った人間なのだろうか。非道だ。冷酷だ。

 自分で薪をくべて、勝手に燃え盛っていく。今のイズーには、なにを言っても無駄だった。自分以外のオスが、風吹に触れたことが悔しくて、腹が立って――恐ろしくて。例え風吹がなにを言ったとしても、落ち着くことはないのだ。

 唯一の解決策は、時間を置いて、お互い冷静になること。だが世の中の揉め事の多くは、それができないからこそ悪化する。今回もそうだ。


「だいたいあなたに、そういうことで怒られるいわれはなくない?」


 風吹はじろりとイズーを睨み、徹底抗戦の構えを取った。攻め一方だったイズーの腰が、わずかに引く。


「ど、どういう意味だ?」

「別に私たちはつき合ってるわけじゃないでしょ? ただの同居人でしょ?」

「……!」


 風吹の言い分に、イズーは後頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。即死しなかったのが不思議なくらいだ。


「そ、うだったのか……?」


 イズーの全身はわなわなと震えている。

 風吹は無慈悲にも、追撃を開始した。こういうときの女は、実に残酷だ。


「だって私、イズーのこと、なーんにも知らないし。こんなの到底おつき合いしてるなんて、言えないよねえ?」


 芝居がかった口調で言いながら、風吹は肩をすくめて見せる。


 ――ちょっと言い過ぎたかな……。


 少し後悔するが、風吹も風吹で色々と鬱憤が溜まっていたのだ。

 イズーのことをなにも知らない。教えてもらっていない。溜めるだけ溜めて、いきなり爆発するのも、女の良くない癖かも知れないが。


「お、俺のことが知りたいなんて、お前、今まで言わなかったじゃないか!」

「聞いちゃいけないって思ってたの!」

「う……。それは気を使わせて悪かったけど……」


 イズーは口ごもり、そのあと歯切れ悪く小声で続けた。


「あ、明日」

「は? なにが?」

「明日には、全部分かるから……。俺の……出自からなにから、全部ご報告致しますから……」


 なにを緊張しているのか、言葉遣いがおかしい。風吹は安心するどころか、不審げな顔つきになった。


「なんで今日じゃダメなの? 自分のことなのに、おかしくない?」

「え、と……。色々段取りがあるから……」

「あの、先祖代々の家系図とか、そういうのいらないよ?」

「いいから! 任せてくれ!」


 イズーは無理矢理押し切った。こうも強引なのは、今の時点ではなにも分からないからだ。

 この世界で、自分は何者なのか。――否。「何者になるのか」。


「それで、その……。部下だっていうあの男と風吹は、本当になにもないのか?」

「ないってば。私も急にあんなことになって、びっくりしてるんだよー」


 風吹は唇を尖らせながら、イズーの脇を通り抜けると、居間のエアコンの電源を入れた。


「あー、暑い。ね、イズー、アイス食べようか」

「……………………」


 話は終わったとばかりに、風吹はいつもの風吹に戻った。だがその態度も、先ほどの「なにもない」という言葉も、イズーはどうしても信じることができない。


 ――不安だ。不安過ぎる。


 正直に白状すれば、イズーは風吹の倫理観に信頼を置いていない。風吹はなにしろ、享楽的なところがある。自分と出会った翌日にはもう、寝床を共にしたくらいなのだ。快楽に流されやすいというか、今が楽しければいい、くらいに思っているのではないか。

 だからもしかしたら、大して罪悪感を抱くことなく、誰とでも寝るんじゃないか……。


 ――俺は騙されているんじゃないだろうか……。


 エアコンの吹き出し口の近くに立ち、風吹は涼んでいる。そのほっそりした背中に、イズーは恐る恐る問いかけた。


「風吹……。俺のこと、好きか?」

「好きだよ?」


 迷いのない、即答だった。嬉しいが、それはとてもとても嬉しいことだったが、だがきっと違う。


 ――俺のと、違う……!


「やー、ひゃっこーい。気持ちいー。イズーもこっちおいでよ」


 目を細め、冷風に当たっている風吹の後ろで、イズーは頭を抱えた。


 ――気が狂ってしまいそうだ。


 また明日には風吹を、先ほど駅前でやり合ったあの男がいるところに――会社に、送り出さなければいけない。

 自分の目が届かぬところで、風吹たちはなにをやっているのだろう。

 いやもしかしたら、風吹の相手はあの男一人ではないのかもしれない。

 もっと大勢。だったら、どうしよう。

 自らを思い詰めれば思い詰めるほど、天と地がひっくり返り、大波が押し寄せてくるような不安に襲われる。

 恐ろしい。風吹を連れて、逃げ出したい。


 ――そうだ、こんなところにいるのが悪いんだ。


 例え豊かでも安全でも平和でも、ここはきっと悪しき世界なのだ。そういえば幻燈も、この間、言っていたではないか。


『こちらの世界では、子供一人育てるのに、最低でも一千万円ほどかかるんです。だからなんの計画も立てず、ただ子供が欲しいなんて言ってたら、無責任な男だと誤解されますよ』


 いっせんまんえんだなんて、御札を何枚作って売ればいいというのか。ただ子供を産んで育てるのに、そこまで経済的な困苦を嘗めなければならないなんて、この世界はやっぱり狂っているのだ。

 混乱のあまり、眼前がぐるぐる回り出す。あれほど素晴らしいと思っていたこの世界から、風吹を連れて、一刻も早く離れたい。

 イズーは急いで切り出した。


「ふ、風吹。俺の故郷へ行こう……!」


 今ならまだ、「異界の扉」を開くことができる。元いた世界ならば、自分は最強の魔法使いとして、何不自由なく生きていける。風吹にも贅沢をさせてやれるし、子供も何人だって持てるだろう。

 しかしイズーからしたら筋道の通った主張でも、突然それを言われた側からすれば、ただの世迷い言にしか聞こえない。


「は?」


 振り返った風吹の表情は、案の定ひどく冷たかった。そのうえ不運なことに、イズーは彼女の地雷を踏んだのだ。

 今夜の飲み会で話題に上がった、「嫌いなタイプの異性」。風吹は「元カレのような男」と答えた。風吹が思い出したくない元カレは、「自分の部屋に浮気相手を連れ込んだ男」と、もう一人いる。

 家業を継ぐために、実家へ戻った男。風吹がついて来ると信じて疑わなかった、あの傲慢な男だ。


「なんかそういうの……嫌だな」


 昔を思い出して、風吹は悲しそうにそっぽを向く。対してイズーは、奈落に落ちていった。




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