7-3




 残念なことに今夜は雲が多く、星は隠されてしまっている。それでも癖になっているのか、時折天上を仰ぎながら、風吹は歩いた。大量のアルコールが流し込まれた体は、だがその気配を微塵も見せず、彼女の足取りはしっかりしている。むしろ横を歩くD太のほうが、ワインをグラス一杯しか飲んでいないのにふらついており、危うかった。

 この間チームのみんなと飲んだのは、一ヶ月ほど前のことだったろうか。暦はまだ七月だったあの日は、長期プロジェクト完了の打ち上げだったはずだ。

 本日も一月前と同じく、お開きのあとは二手に別れて帰路についている。風吹はD太と二人、一番近い駅を目指し、歩いているところだった。

 今日もまた楽しい時を過ごすことができた。部下とのやり取りを思い出すたび、笑みがこぼれる。そんな風吹を見て、傍らのD太は、「思い出し笑いなんてスケベだ」と、いつもどおり憎まれ口を叩いた。

 ケンカや小競り合いはしょっちゅうだが、なんだかんだ言いつつ風吹のチームは仲がいい。チームが発足したのは二年前になるが、当時はもっと殺伐としていたのだが。

 ようやく目指す駅が見えてきた。D太とはそろそろお別れである。風吹の自宅マンションは駅を越え、更に徒歩で十五分ほどのところにあった。

 歩道橋の階段を上り始めると、D太が話しかけてきた。彼も風吹と同じようなことを思い出していたのか、話題は一月前のことについてだった。


「そういえば、あの日以降でしたよね。みんなで飲んだ次の日から、主任が、彼氏がどうのこうの言い出したのって。最初は犬だか猫だかを拾ったって話だったのに」

「ああ、うん……」


 D太の話しぶりは妙に厳しい。なんだか詰問されているような気分になって、風吹は困惑しながら相槌を打った。


「今まで……。本当に今まで、あなたに男の影なんて、全くなかったのに。それがどうして急に……」

「……………………」


 まさか見ず知らずの男をほいほい拾って帰り、そのまま一緒に暮らしているなんて。そんな常識を疑われるようなこと、暴露できるわけがない。

 しかも相手はD太だ。バレたら、面倒くさいことになるに決まっている。

 返答に困った風吹はひたすら足を動かし、さっさと歩道橋の階段を上りきった。

 右に曲がれば、すぐ改札口だ。


「それじゃ、また明日ね」


 風吹はD太を置いて、そそくさと帰ろうとする。しかし、腕を掴まれてしまった。


「なに……?」


 振り向けばD太が、まっすぐこちらを見詰めていた。D太は男性にしては背が低いほうだから、今日のように風吹が踵の高い靴を履けば、二人の目線の高さは同じになる。

 ――そう、あのときも。風吹とD太は至近距離から目と目を合わせ、一触即発の状態で睨み合ったのだ。





 今でこそ和気あいあいな風吹のチームも、出来た当初はぎくしゃくとしていた。

 A子もB子もC子も、最初は「落ちこぼれ」というレッテルを貼られ、配属されてきたのだった。

 周囲との衝突が絶えなかったり、または逆に「積極性に欠ける」として戦力外とされていたり、彼女たちには散々な評価が下されていた。人事部は、主任に昇格したばかりの風吹に、そんな部下たちを押しつけたのである。

 しかし風吹は、だからといって腐らなかった。A子たち三人が実力を発揮できない理由を、経験として知っていたからだ。

 現在はだいぶ改善されたものの、土木・建築の分野は男社会だ。風吹の勤める会社にも、その特徴は色濃く残っていた。

 例えば花型の営業部で役職持ちは全員が男性だとか、女性は大口案件を任せてもらえず、男性社員のサポートばかりさせられていたとか、悪しき風習は枚挙に暇がない。

 そのような土壌へ足を踏み入れた、新しい世代であるA子B子C子たちを、男性上司たちはうまく扱えなかった。必要以上に厳しくし過ぎたり、逆に閑職に回したりしたのだ。

 不当にそんな目に遭えば、誰だってやる気も出ないし、成長も見込めない。同僚や上司との信頼関係だって、結べないだろう。

 だから風吹が主任になってA子たちにしたことは、ただ「普通に扱った」だけ。責任のある仕事を任せ、必要に応じて手助けし、やり遂げるまでを見守った。

 上司として当たり前のこの行動に、A子たちはいたく感激し、奮起した。

 元々学歴も高く、能力にも恵まれた女性たちだったのだ、A子たちは今までの悪評を呆気なく覆し、どんどん成長していった。

 しかし真の難物は、A子たちのあとに配属されてきたのである。――D太のことだ。

 業界では東大に匹敵するほどの権威である、某大学院に学んだD太は、鳴り物入りで入社してきた。だが彼の人間性には、大きな問題があったのだ。

 D太は確かに天才だった。新人とは思えぬほど、仕事もできた。この道何十年の専門家と同等か、それ以上の知識もあった。しかしそのせいで他人が愚劣極まりなく見えるのか、D太は誰の指示も命令も聞こうとしなかった。上司や先輩に宥められようが叱られようが諭されようが、逆に論破してしまう始末である。

 最初は逸材と期待されていたが、そのような素行のせいで各部署をたらい回しにされ、様々な上司の下に就いたがいずれも匙を投げられ――。こうしてD太は、吹き溜まりと思われていた風吹のチームに、とうとう投げ込まれたのであった。

 D太が来てから、せっかく落ち着いていた風吹のチームは、荒れに荒れた。D太はもちろんかつての上司たちと同じように、風吹の言うことなど聞かなかったし、同僚であるA子たちのことも遥か下に見て、まともに会話すらしなかった。

 風吹もA子たちも折りに触れてD太に立ち向かったが、彼の意見や主張は正論で隙がなく、いつだってやり込められてしまった。

 A子もB子もC子も当時は今よりもよく怒り、よく泣き、風吹は彼女たちを何度慰めたかしれない。

 D太をまた別の部署に移して欲しいと相談もしたが、人事部はなぜか風吹に対してだけは、厳しいお達しを寄越してきた。


「部下を使いこなしてこそ、上司だろう。リーダーとしての資質を試されていると思いなさい」


 つまりこれもまた女性にだけつらく当たる、社風の一環だったのだろう。


 ――なにもかも、私が不甲斐ないからだ……。


 泣きついてくるA子たち部下を励ましながら、風吹は自己嫌悪と反省の毎日を過ごした。そのうえ、自分たちのことを棚に上げた周りの部署からは、D太を制御できないことを理由に、管理能力の欠如を非難されたのだ。風吹のストレスは、ぐんぐん加速度的に溜まっていった。

 そして――ある日ぷっつりと、我慢の糸が切れた。

 このときの風吹は、結婚まで考えていた恋人と別れたばかりで、少々不安定だったのかもしれない。

 いや、逆だろうか。なくすものはもうないと、度胸が座ってしまったのかもしれない。

 席を立ったD太のあとを、風吹は追った。そして彼が給湯室でコーヒーを淹れているところへ、忽然と姿を現した。


「うわっ! びっくりした!」

「……………………」


 風吹は驚きに目を瞠るD太に構わず、二畳ほどしかない狭い給湯室へ踏み込むと、距離を詰めた。


「な、なんですか? い、言いたいことがあるなら、こんなところじゃなくて……!」

「……………………」

「ちょ、ちょっと……!」


 風吹の無言の迫力に押されて、D太は後ずさる。

 怒りが募れば募るほど口数が減り、そして無表情になる。風吹はそういうタイプの女性だった。

 奥に据えられた冷蔵庫に、D太の背中がつく。行き止まりだ。もう逃げられない。

 このときの風吹は、自身で振り返ってみても、なにを考えていたのか分からなかった。

 D太にただ文句をぶち撒けてやりたかったのか。一発、いや百発ほど殴ってやりたかったのか。いっそ、刺し殺してやりたかったのか。ともかくチームの和を乱すD太が、憎かったことは確かだ。

 ヒステリックな衝動のまま追い詰め、風吹はD太の頬の真横に、乱暴に手を突いた。冷蔵庫の扉が、大きな音を立てる。壁ドンならぬ、冷ドンである。

 高い踵の靴を履いた風吹とD太に身長差はなく、目と目の勝負となった。

 風吹は、実家の犬を躾けていたときのことを思い出した。上下関係を叩き込むならば、目を逸らしてはいけない。


「……くっ」


 先に横を向いたのは、D太だった。風吹は勝ったと思った。と同時に、平常心が戻ってくる。

 なにを馬鹿なことをやっているのだろう。自身に呆れながら、改めてD太に向き直れば、気まずそうに睫毛を伏せ、なにかに耐えるように唇を噛み締めている彼が幼く、また怯えているようにも見えて、責めるのが可哀想になってしまった。


「あのさ、君。せっかく可愛い顔をしてるんだから、ツンツンし過ぎるのやめなよ。みんなをやり込めてるときの、自分のドヤ顔見たことある? ひどいもんだよ。君はきっと、穏やかに笑っていたほうが素敵だよ」


 上司と部下の会話として相応しくない内容だとは分かっていたが、それが風吹の率直な気持ちだった。


「なっ」


 からかわれていると思ったのか、D太は睨もうとする。だが風吹がその視線を余裕綽々で受け止めると、彼はまた目を逸らしてしまった。

 これで二勝目。風吹はもうD太に、恐れを感じなくなっていた。


 ――もしかしたら私も前評判に踊らされて、この子を悪い意味で特別扱いしてたかもしれないなあ。


「これからは私も君に遠慮しないから、よろしくね」


 風吹は一人で勝手に心を晴れやかにすると、給湯室から外へ出た。しかし。


「セクハラーーーー! 今のセクハラですからねーーーー! しゅにーーーーん! うったえてやるーーーーー!」


 剣呑な叫び声が追いかけてきたので、風吹は大急ぎでその場から走って逃げた。


 そのようなことがあってから、幸いなことに訴えはしなかったようだが、D太は風吹と二人きりになると「セクハラ上司」と責めるようになった。

 しかしどんな心境の変化があったのか、D太の態度は明らかに変わった。口が悪いのはそのままだが、風吹の指示に従うようになったし、A子たち同僚に協力したり、助言まで務めるようになった。


 ――そのD太が、今、風吹の腕を掴み、メガネの奥の瞳を潤ませている。


「俺はあのときからずっと、あなたのことが……!」

「え」


 帰りを急ぐ社会人や学生が、ただならぬ様子の風吹たちをチラチラと覗きつつ、通り過ぎていく。

 熱帯夜に負けぬほど暑い、熱い、D太の告白は続いた。


「昔、俺は誰からも相手にされなかった。だから俺だって、誰も助けてやりたくなんかない。だけど……だけど。二年前のあのとき、給湯室で、俺はあなたに不必要な力みを解いてもらった気がするんです。俺は自分がどれだけ通用するか、どの程度の男なのか、一度逃げ出したこの世界で試してみたかった。だから、戻ってきたんだ。なのに過去の恨みだとか憎しみに囚われるあまり、目的を見失いかけていた。あなたのおかげで、それに気づいたんです」

「そ、そうなんだ」


 D太の勢いに気圧され、風吹は当たり障りのない言葉を返すしかなかった。


「それに俺、あのとき目覚めたんです。目覚めてしまったんです……」


 常日頃クールだったはずなのに、妖しく様変わりしたD太の言葉に、これ以上耳を貸すべきではない。

 嫌な予感がする。

 本能が警鐘を鳴らすが一足遅く、風吹はつい尋ねてしまった。


「な、なにに……?」


 問われたD太の表情が、恍惚に歪む。


「女性にプライドを踏みつけられる、あの感覚。支配するよりも、支配されたい。そもそも俺は、年上の女性が好きだったんです……」

「……………………」

「主任、もっと俺をいじめて。優しく叱って、弄んで……!」


 あまりにあんまりなことにキャパシティオーバーとなり、風吹は瞼を閉じた。


 ――聞くんじゃなかった。


 後悔に浸りながら、風吹は静かに深呼吸した。





 夜道を歩きながら、イズーは額を擦った。

 あのあと幻燈からは、スティックシュガーの空袋から紙ナフキンなど、様々なものを投げつけられた。


「暴力僧侶め。……正直に言えるわけがないじゃないか」


 あまりに恥ずかしい願望。――征服するより、されたい。

 人が抱く真実の願いを見抜き、叶えてくれるという「異界の扉」は、イズーの邪なそれを成就させるべく、風吹のもとへと運んでくれたのだ、などと。


 ――なんにしろ、俺にとって風吹は、運命のひとなのだ。


 自然と顔がにやけ、胸が熱くなってくる。しかしなぜか全身全霊で、この幸福を受け止めることができない。

 そう、なにか大事なことを忘れているような……?

 イズーは最寄りからひとつ隣の駅へ向かっていた。風吹がどこで飲むか聞いていたから、どの道順で帰ってくるのか予想がつく。だから迎えに行こうと思ったのだ。


 ――あの歩道橋の上で待っていれば、会えるだろう。


 夜も遅い時間だというのに、人通りの耐えない付近を眺めながら、そういえばここで初めて風吹と出会ったのだと、イズーは懐かしく思い出した。

 この世界のことについてなにも知らない自分に、風吹は優しくしてくれた。感謝しながら進んでいけば、見慣れた後ろ姿に出会う。


「ふぶき……」


 声をかけたところで、イズーは風吹が誰かと一緒にいることに気づいた。




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